2011年プラハ訪問レポート
第2回:プラハでの再会
今回のプラハ行きほど迷ったことはありません。
迷いながら、1,990年、『テレジン収容所の幼い画家たち展』開催の準備中に、イスラエル大使館の方からキブツ、ギヴァット・ハイムにある「Beit Theresienstadt」を紹介されたときのことを思い出しました。イラクのクウェート侵攻がはじまり、毎日のように新聞が、湾岸戦争必至と報じていたときで、まわりの人はみな口をそろえて「危ないからやめろ」と、私のイスラエル行きに反対していました。あのときは、戦争に巻き込まれる不安をもちながらも(確かに、帰国してすぐ戦争状態になり、テルアビブにミサイルが発射され、人々がガスマスクを持って歩く姿がテレビに映るようになったのですが)、新しい発見、出会いへの期待が大きく、私自身はあまり躊躇することなく出発したのでした。
でも、今回は違っていました。
毎日のように余震があり、計画停電もあり、電車の運転見合わせも多く、こんな時に海外旅行かと顰蹙を買いそうな気もしましたし、原発の事故の危険度が増していく中、不在のあいだに、何か起こるのではないかという不安もありました。
私は、‘91年に展覧会を開いてくれた仙台、石巻の方たちとの連絡も取れず、「日本よりもプラハの方が安全だから…」というディタの誘いに乗りきれない気分があり、娘は、外国人社員が帰国してしまって仕事の手順が狂い、休暇を取れるかどうかという状況で、すでに地震の前に飛行機もホテルも予約を済ませていたものの、同行する娘とは連日「どうしよう?」とメールをやり取り、少し落ち着くまで延期しようかとも考えたのですが、 ……結局、成田空港行きバスが運行を再開したから、という訳の分からない口実で、3月29日出発しました。
成田空港の閑散ぶりにびっくり、これまでに、こんなに人気のない空港を見たことがなかったです。地震直後には、外国人が帰国を急いで大変な混雑、混乱だったと聞いていたのに、外国人の日本脱出はほぼ終わり、日本人は自粛ということだったのでしょう。当然、SASの機内も空いていました。
ディタは、一週間ほど前、イスラエルからプラハへ来ているはずでしたが、とりあえず、モルダウ河の岸辺に立つホテルで、余震のまったくない一夜をすごした翌朝、ユダヤ人街のピンカス・シナゴーグへ出かけました。
ここでは、すごい人の列にびっくりです。高校生くらいの若者の団体が、チケット売り場からシナゴーグの中までいっぱいです。規則で男性は、キッパと呼ばれる小さな帽子を買って頭に被ることになっていますが、彼らの半数は被っていません。入り口に集まって大声でしゃべっているグループ、ユダヤ人墓地に入るあたりに座りこんでいるグループ、聞こえる言葉はドイツ語でした。
さすがに館内に入ると大声のおしゃべりはなくなり、神妙な表情にはなっているようですが、壁一面に書かれた犠牲者の名前などは関心もなさそうに通り過ぎていきます。そんな団体を避けるようにたたずむ老人、立ち止まってじっと壁の一隅を見つめている人…そんな、いつもの光景もあります。
ドイツでは、高校生は必ずアウシュヴィッツを訪ねることになっていると聞いたことがありました。あの広いビルケナウで、「死の門」につづく線路の草むしりをしたりしながら、70年以上前に自分たちの国の独裁者が犯した罪、そして、それを受け入れてしまった国民の責任を考え、人間の命や尊厳のこと、差別のことなどを学ぶのだと聞いたのは、私が、チェコやポーランドをしばしば訪れていた1990年代、ベルリンの壁が崩壊し、チェコやポーランドの国政が大きな変革をとげた後のころでした。
「アウシュヴィッツはなかった」というような発言をしたり、ホロコーストの犠牲者の数を少なかったと主張したり、ドイツ国民が、自国の起こした事実を否定するようなことをすると法律で罰せられると知ったのもそのころでした。ドイツの教科書には、ヒトラーのこともアウシュヴィッツのことも、かなりのページ数をさいていることも聞き、素晴らしい教育だと思ったものですが、20年が過ぎ、あの国でも、戦争をまったく知らない世代の人を親に持つ子どもたちが育っているのが現状で、果たして彼らは、ホロコーストのことやユダヤ人絶滅作戦などという恐ろしい政策を教えられても、それを現実のものとして捕らえているのだろうかと考えてしまいました。
売店で、新しい絵本を一冊見つけました。『The Cat with Yellow Star』、表紙に女の子の写真がありましたが、ページを開いてびっくり。エラ・ワイズバーガーです。
アメリカに住む彼女は、2001年にプラハで『テレジン もう蝶々はいない』を上演した時、ヘルガやラーヤが誘ってくれて、わざわざ来てくださった人で、テレジンで『Brundibar』が上演されたとき猫の役で出演していたのです。
テレジンの子どもたちの絵を見て(私が'89年に最初に見た小さな博物館からピンカスに移って、それ以来ずっとまったく変わっていない展示です)、すぐ近くの昔のプラハの文化を感じさせるカフェ「フランツ・カフカ」でコーヒーを飲んで、ああ、またプラハへ来たのだと、ちょっとセンチメンタルな気分にひたりました。
はじめて訪れた89年のころ、あの暗く貧しかった時代、店に品物はなく、軍人や警官の制服ばかりが目立ってて、観光客など少なかったプラハ、今の華やかで、おしゃれで、観光客で賑わうプラハ……そして、ナチスのカギ十字の旗が街中にあふれ、軍服に長靴のドイツ兵が我が物顔に闊歩し、収容所へ送られるユダヤ人の列が歩いたというプラハ。ナチス・ドイツのプラハ侵攻は、1939年、たった72年前のこと思うと、時の流れの速さはもちろん、人間って、こんなに変われるのか、順応できるのかと複雑な思いでした。
翌日、ホテルに迎えに来てくれたディタとまたピンカス・シナゴーグへ。
前日の混雑が嘘のように靜かで、長い時間をかけて、彼女とともに、壁に書かれた両親の名前を探しました。「ある場所は知っていたのに、ないわ、どこだったかしら?」と歩き回るディタに、館内にいたスタッフが親切に対応してくれていました。以前は館内も撮影できたのに、今はとても厳しく禁止されていて、親切なスタッフに、一枚だけと頼んでみても、事前に本部に許可申請を出していなければ許されないとのことでした。
仕方なく撮影をあきらめて、ディタと近くのレストランで昼食をしながら、テレジン時代のこと、フリードル・ディッカーの思い出などを聞きました。
フリードルが持っていた画集を見せてもらった話、ゴッホの「ひまわり」を見ながら教えられた色彩のこと。「女の子の家」の部屋割りのこと、病気だった友だちのこと。
1929年生まれのディタは82歳、元気で若々しく活動的ですが、耳が遠くなって補聴器が必要になったとか。正直なところ、記憶も少々不鮮明になっているのか、以前聞いた話と違っていたり……。
聞いた話は、次の本の中で生かして行きたいと思っています。
ラーヤは体調を崩しており、ヘルガは孫の出産で海外(イスラエル?)へ行っていて不在とか。残念ながら、三人一緒に話をする機会はダメになりました。
翌日は、朝、教えられたトラムに乗ってディタのアパートへ。
彼女の描く花の絵がたくさん飾られているきれいな部屋で、孫や曾孫の写真を見たりしておしゃべりを楽しみました。2000年に亡くなった夫のオットーの著書の英語版が出版されたということで、その本『The Painted Wall』 を前に、オットーの思い出話、イスラエルで三回ほど会ったことがありました。ものしずかな方で、そのころ、『The Dream Merchant and Other Galilean Stories』という本を出版していて、日本語訳が出せると良いですねと話したけれど、実現できなかったこと、彼のすすめで、イスラエル滞在中に<Lohamai Hgetaot>を訪れたこと、1999年、TVKのロケで行った折には病床にいて、「また会いましょう」と握手をしたこと、私にも忘れられない人です。
いただいた『The Painted Wall』の扉には、「わが妻へ。彼女なしにはこの本は書けなかった」という献辞がありました。1945年、戦争が終わり、生き残って故郷のプラハへ帰ってきたけれど、両親はもちろん、祖父母も叔父叔母もみんな殺され、たった一人になっていたディタがめぐり会ったのが、友だちのお兄さんで、やはり、たった一人生き残ったというオットーだったのです。
翌日またディタのアパートへ行きました。テレジンの子どもたちの絵の調査、研究をしているイヴォナを紹介してくれるというのです。
パソコンの画面で絵を見ながら、フリードル・ディッカーの指導法のことなどを聞きました。いくつかは、これまでまったく聞いたことがなかった話で、その資料が手に入れば、フリードルの教育法について、また一つ新しい発見を追加することができるものです。ぜひ、資料をいただきたいと話してありますので、あらためて、新しい本の中で紹介していきたいと思っています。
彼女の話を聞きながら、なぜかピーター・ガイスラーのことが思い出されてなりませんでした。90年、前年に偶然に見たテレジンの子どもたちの絵が忘れられず、どうしても日本で展覧会を開きたいと決意、在日チェコ大使館を通して打診の上、ユダヤ博物館との交渉に入る時、通訳をお願いしたのがガイスラーでした。日本のY新聞の記者で、日本で学んだ経験もないのに、日本語が流暢どころか、古事記も読み、芭蕉が好きというすごい人でした。日本には一回数日間行ったことがあるというだけなのに、日本酒が大好きで、いつも机の上にある骨董品の漆のお椀で、嬉しそうに日本酒を飲む人でした。
彼がいなかったら、私が希望した『テレジン収容所の幼い画家たち展』はできなかったのです。生き残りのラーヤやヘルガに会って話を聞くときも、いつも同行してくれた、あのガイスラーは、昨年の1月、肝硬変で亡くなり、もう会えないのです。書道をやっていて、日本の漢字や平仮名を美しい作品に仕上げていました。いろいろお世話になったお礼に何か欲しいものをと聞いたとき、太い筆を欲しいといわれ、墨や半紙と一緒に大きな筆(ものすごく高い値がついていて、びっくりしたものです)を持っていったのも、こんな春の日だったな…なんて、プラハの旅の間ずっと妙に感傷的になることが多かったのは、ホテルのテレビでも毎日映される東日本の地震や津波の映像のせいだったのでしょうか。一年間、何度も何度も訪ねた石巻……ああ、あそこに、あんな店があった、あそこで、あの人に会った、あそこには……と、遠く離れたプラハででも、記憶の糸を紡ぐことが多かったようです。
異常気象なのか、いつもならまだ寒さの残るときなのに、まるで初夏のような暑さ、プラハの3月はまだ寒いと考えて、厚手のセーターやコートを持参した私たちには少々つらい気候です。
10年ほど前のこの時期、雪解けと長雨が重なってモルダウ河が氾濫し、河に近いユダヤ人街はもちろん、かなり離れた旧市街広場まで冠水したことがありましたが、空は青くはれ、プラハ城をのぞむ丘に黄色いミモザや連翹の花が満開で、美しい季節です。
街の中には、移動遊園地ができていました。冬の長いこの街では、春の訪れを人々煮しらせてくれるのは遊園地です。テレジンの子どもたちの絵にある、メリーゴーラウンドや屋台の店と同じ風景が見られます。子どもたちはみな、元気で、愉しそうに笑っています。ポニーに乗って赤い屋根の下をまわっている子ども、まだ3・4歳の女の子が、可愛くて仕方ないという風にポニーに頬ずりしている姿がほほえましく、そんな子どもたちを見ていてもまた、あの被災地で亡くなった子ども、親を失った子どものことなどに思いが行ってしまいました。
ディタから、日本の被災地の子どもたちへのメッセージをいただきました。
「地震とツナミ(英語でもチェコ語でもTsunamiなのです)で、大きな被害を受けた日本の方たちに心からお見舞いを申し上げます。テレビに映る被害の大きさに胸を傷めています。
ミチコに招かれて、一度、日本へ行ったとき、美しい日本の景色を見、たくさんの人に暖かく迎えてもらったことを覚えています。
一日も早く、みなさんが以前のような生活の戻れるよう世界中の人々が祈り、応援しています。
親を亡くした子どもたちは、本当に悲しい毎日だろうと思います。でも、希望を捨てないでください。
私たちは収容所で暮らしていた時、フリードル先生から“きっと明日はいい日になる。希望を捨ててはいけない”と言われました。そして、実際に私は、生きていたから、たくさんの人と出会うことができました。美しいものをたくさん見ることができました。好きな絵を描くことも、旅行することもできました。
あなたたちにも、素晴らしい明日があることを信じて、今は、つらく悲しいでしょうが、希望を持って生きてください」