テレジン通信:2012年6月
6月3日 埼玉文芸 春の集い
埼玉文芸家集団とさいたま文学館共催で行われる年中行事の一つ、「埼玉文芸 春の集い」で、『生きる力~収容所に残された子どもたちの絵と詩が語るもの~』と題して講演をさせて頂きました。文芸家集団のお仲間が多く聞いてくださる機会なので、今回は、いつもの絵の話ではなく、テレジンの子どもたちの残した詩を紹介することにしました。
思えば、1989年2月、まだ社会主義国のチェコスロバキアを訪れ、プラハの街のユダヤ人街だった一画にある小さなシナゴーグに入ったのが、私とテレジンの出会いでした。そこで見た子どもたちの絵に心惹かれて……と、展覧会の場でも、講演の中でも、話をしてきました。
確かに、普通の子どもらしい明るい絵を見ているうちに、首吊りの場面を描いた絵の前に立ってしまい、そこから、これらの絵は、誰が、どこで描いたものなのかを、どうしても知りたくて一冊の薄いパンフレットを手に入れた――というのが、テレジンという収容所の存在を知り、そこで行われていた“子どもたちの学校”のことを知るきっかけだったのです。
その薄いパンフレット、なぜか、英語版はなく、チェコ語、スロバキア語、ロシア語、どれもまったくダメと言ったら、出してくれたのが、たった一冊あったフランス語版だったのも、今になって思えば幸運でした。『Dessins d’enfant du Camp de Concentration de Terezin』と書かれた、粗末な紙の、印刷も悪いパンフレットの表紙を開いた最初のページに載っていたのが、『Petit jardin』という詩でした。
Petit jardin
tout plein de roses embaume,
I”allee est etroite,
un petit d”home s”y promene……
Frantisec Bass という少年の書いた詩は、わずか7行、その最後は、Quand le bouton fleurla petit garcon plus ne sera で終わっていました。名前の後には、(4.9.1930~28.10.1944 Auschwitz)とありました。あの絵の一枚いちまいの小さな名札についていたのと同じ……この少年が、バラの咲くのを待たずにガス室で命を断たれたことを示すものでした。
その詩を最初にお見せしたのは、詩人の宗左近氏でした。以前、雑誌の仕事で石巻市の特集号をつくったとき、天才といわれた若き彫刻家・高橋英吉をとりあげたことがきっかけで、宗氏と知り合っていました。高橋英吉は、美高在学中に文展に入選。その後、故郷の漁夫の姿を力強く、しかも繊細に彫り上げた作品などで、「今世紀最大の木彫家」と絶賛され、注目をあびながら、召集され、南方へ向かう輸送船とともに海の藻屑と消えた人でした。戦没画学生の遺作展を企画、開催していた宗氏は、私が見せた詩を読んで涙を浮かべました。「すばらしい! 大人の書く象徴詩ですね……戦争は、こういう才能も可能性もすべて消してしまうのですよ。この子が大人になったら、どんな詩を書いただろうって思うと、本当に痛ましい」とおっしゃったのでした。
そして、「絵の展覧会だけでなく、子どもたちの詩も、なんとか発表してあげてください」と。でも、なかなか実現できずに時間が過ぎました。91年から始まった『テレジン収容所の幼い画家たち展』の中で、子どもの絵と並べていくつかの詩を入れたパネルを作りました。著書の中で、いくつかの詩を紹介しました……そこまでが私の限界で、訳詩集を作ることはできなかったのです。子どもたちが収容所で書いた詩は、数十編見つかっています。チェコ語のもの、ドイツ語のもの、ヘブライ語のもの。どれも、小さな紙切れに細かい文字でびっしりと書かれ、その紙が千切れていたり、すり切れていたり、91年当時のプラハのユダヤ博物館では、まだ整理も十分ではなく、その後、少しずつ、英訳されたものが発表されるようになったのですが、日本語に訳すのは大変でした。
それでも、私は、子どもたちの詩にも光を与えたいとずっと思っていました。そして、実現させたのが、子どもたちの詩に曲をつけて歌にすることだったのです。友人の作曲家でギタリストの中村ヨシミツさんとの協力で、はじめにフランティセック・バスの『庭』が歌になりました。そして、「……もう蝶々はいない あれが最後の蝶々だったのだ……」と書かれた『蝶々』が。
当初は、展覧会の会場で、私の講演会の場で、ヨシミツさんのギターで、西山琴恵さんに歌っていただいていました。たった2曲のミニコンサートでした。それが、1つ、また1つと歌がふえ、テレジンを伝え、絵の教室の先生を紹介する詩をつくり、テレジンを歩いての私の思いを詩につづり、1996年から、ヨシミツさん、西山さんに、歌手・三原ミユキさんが加わり、朗読と歌によるコンサート『テレジン もう蝶々はいない』ができあがったのです。
今回の講演会では、ヨシミツさん、西山さんが友情出演で、子どもたちの詩を歌にしたもの5曲を聞いて頂きました。
絵を教えた先生フリードル・ディッカーは、「絵を描くことは生きる力になる」と信じていました。「今いる、この収容所は汚く醜い場所だけど、外には、美しいものがいっぱいあるのだ」と子どもたちに伝えるために、テレジンでは、何人もの詩人や作家や教育者が、命の危険もかえりみず、子どもたちに語り、詩を書かせ、文章を綴らせました。
絵を描き、詩を綴ることで、一度は笑顔を失い、絶望的になって暮らしていた子どもたちが、目を輝かせ、明日への希望や夢を語るようになったのです。
収容所という、日常からはなれた、いわば極限状態の場で、絵や詩、芸術が、子どもたちに何を与えたのか……それは、文芸という仕事にかかわる私たちが、今、何をすべきなのかを考えるきっかけになってくれればと思いながら話しました。
嬉しいことに、たくさんの方から「いいお話を聞いた」とおっしゃっていただきました。
会場に展示したパネルも熱心に見ていただきました。
聞いてくださった方への感謝とともに、ご報告します。
2012年6月 野村 路子
野村先生の講演会を拝聴して
6月3日(日)、さいたま文学館で催された「埼玉文芸 春の集い」にお招きいただき、野村路子先生の講演を拝聴いたしました。
雨上がりの中、新緑が美しい並木道を歩き、近代的な<さいたま文学館>の建物へ。ホール入口に展示された<テレジン収容所の子どもたちが描いた絵>とその解説がつけられたパネルが目を惹きました。
野村先生の講演では、テレジン収容所との出会いから、そこがどんな所だったのか、その中で短い命を懸命に生きた人々、わずかながらも生き残った人たちの、いまだ消えぬ心の傷など、あまりにも痛々しい戦争の実態が語られ、「過去の出来事」で済ませてはならない、胸に迫るお話でした。
何より、「過酷」という言葉では表現しようもない現実の中で、絵を描くこと、詩をつづることに小さな希望を見つけた子どもたちの健気さ、そして、それでも埋められない慟哭が伝わってきます。
今回の集会は、埼玉県在住の文芸家の皆さまが中心と伺いました。その旨もあり、講演の中で特に注力されていたのが、<子どもたちの詩>でした。ミニコンサートは、会に花を添えただけでなく、哀愁ただようメロディとともに心をこめて詩の意味を歌で伝えてくださいました。<言葉>の持つ力が、より一層強く感じられました。文芸家の集まりで、本当に有意義な講演だったと存じます。誠にありがとうございました。
客席で野村先生のお話を拝聴していた方々の何人もが涙を拭っていらした姿が印象的でした。
2012年6月 石田えり子