2011年7月22日 石巻市訪問レポート
7月22日、石巻市立荻浜小学校へ行ってきました。
被災地の学校を訪ねたいと思ったのは、3月11日から二週間ほど過ぎた時でした。家を流され、学校も流され、避難所の隅にうずくまっている子、妙にはしゃいでテレビ・カメラの前でおどけて見せる子、母親の背にくっついて離れようとしない子…さまざまな姿の幼い子どもたちの姿を見ました。
まだ、自分たちの身に起こったことが実感として理解できず、呆然としている大人たちの間で、きっと子どもたちが感じているのは、寒さやお腹が空いたという事実だけだろうと思いました。明日からの生活を案じ、家族や親戚や知人の安否を気遣う大人たちのなかにあって、子どもたちは、なぜ家に帰れないのか、なぜ学校へ行かれないの……家と一緒に消えてしまったランドセルや教科書はどうするの、大事にしていた縫いぐるみや野球のボール、お気に入りの洋服などを欲しいよと、大声で叫びたいはずなのに、みんなじっと何かに耐えるように「いい子」のしているのが、とても悲しく思えました。
テレジンの子どもたちのことを想いました。突然、奪われてしまった生活、何がなんだか分からない、誰に怒りをぶつけたらいいのか分からない……疑問や怒りや不満や悲しみを黙って我慢している子どもたち。あの子たちに何をして上げられるのか、何を言って上げられるのか。どうしたら良いのか分からず、私も戸惑っていました。毎日、新聞紙面を大きく使って被災地の様子が報じられました。
笑顔を失った子どもたちがいる、早い時期に心のケアを考えなければいけない。そして、専門の知識を持つ人たちが、被災地に入るというニュースも伝わりました。
「プラハ報告」でお伝えしたように、そんな落ち着かない中をプラハへ出かけました。 私の中で、被災地の子どもたちとテレジンの子どもたちのことが重なり、私たちが、東北のフリードル・ディッカーにならなければいけないのではないか、と思うようになった気持ちは、そこに書いたので省きますが、偶然、プラハで受けたメールで、石巻に住む親しい友人が無事だったことを知ったのです。
帰国後、被災地の子どもたちに画用紙やクレヨンを送りたい、できれば行って、絵を描いたり詩を書いたりしながら、子どもたちに「明日はきっと良い日になる」と伝えたいという思いが強くなり、このホームページをとおしても、カンパの協力を呼びかけました。
5月5日には、銀座文化サロンで『テレジン もう蝶々はいない』のコンサートを開き、そこでもカンパを集めさせていただきました。
「まだ来ない方がいい」交通事情、食料や飲料水の不足、宿泊施設がないなど、石巻の首藤さんからのお返事は、かなり厳しい現状を伝えてくるものでした。 そのころから、私の新しい本の編集者である偕成社の早坂さんが郷里の名取市へ帰ったり、仙台に住む画家の前田さんが石巻を訪れたり、いろいろ現地の情報が入ってきました。そして、首藤さんからも、生徒数が少なく、市の中心部から離れているために支援者があまり来ない「荻浜小学校」へ行ってみないかというお話をいただきました。
『テレジン もう蝶々はいない』で長い間ご一緒している歌手の西山琴恵さんにも、ぜひ同行して、子どもたちに美しい歌声を聞かせてあげて欲しいと頼みました。
仙台の前田優光さんには「フリードル先生になって、子どもたちに楽しい絵を描かせてあげてください」とお願いしました。
テレジンの収容所の事実は話したくない、絵を描いた子どもたちがみんな殺されたことは伝えたくない……ただ、つらい生活の中でも、絵を描くことで生きる力をとり戻し、明日への夢を膨らませるようになった子どもたちがいたという事実だけを伝えようと決めました。
7月はじめからいくつもの小学校などで『テレジン収容所の幼い画家たち展』を開催している北九州の鍬塚さん、水口さんたちのご協力で、たくさんの本や画用紙やクレヨンも集まりました。 九州報告を参照
これまでに集まっていたカンパで、画用紙、落書き帳、クレヨン、色鉛筆などを買い集めました。これまでにテレジンの本を出版している偕成社、ルックから本の寄付をいただきました。友人、知人からの本も集まりました。
前田さんは、ご自分の描いた絵本をみんなにプレゼントするほかに、ブログで呼びかけたくさんの本を集めてくださいました。 前田さんのブログ参照
出かける数日前に、宇宙フォーラムの山中さんから連絡が入りました。
私の作品『フリードル・ディッカーとテレジンの子どもたち』が載っている教科書(小学校6年「国語」下)を出版している学校図書の編集者から、詩人たちが連詩を作って、それを宇宙へ飛ばすというプロジェクトがあることを聞き、作品が宇宙へ行くなんてステキな夢だなあと思っていました。
テレジンの子どもたちのうちの一人、ピーター・ギンツの描いた『月の風景』という絵は、すでに2003年に、イスラエルの宇宙飛行士ラモン大佐の手で宇宙へ運ばれたという事実があります。(スペースシャトル「コロンビア」)
山中さんからのお話は、「荻の浜小学校の子どもたちの絵も、宇宙へ飛ばしませんか」というものでした。ステキ!! もちろん、その話にはすぐ飛びつきました。どうやって、宇宙へ行くのか、宇宙のどこに絵を置けるのか……よく分からないけれど、夢があってステキです。
ということで、プログラムができ、西山、前田、山中さんと野村4人が、石巻から首藤さんも加わって、荻の浜小学校へ行ったのです。 ※プログラムの詳細は下記【荻浜小学校プログラムpdf.】をご覧ください。
石巻の惨状を見るのは涙が出るほどつらいものでした。何度も言った桜とツツジが美しい日和山から見る街と北上川、いつもたくさんおヨットや漁船が見られたあの川、橋で繋がっていた中州……何もないのです。ところどころに建っているビルや家はあるのですが、それも外見だけ、すべて中は津波にさらわれてしまっているのです。
以前、私が作っていた雑誌『グラフふるさと』の「石巻特集」では、女優の鈴鹿景子さんが「…まず北上川のほとりから海の方へ歩いて、船を見て、ホヤを食べて、日和山へのぼって、ほっとするんです」と語り、評論家の故・扇谷正造氏が「この街のもつ開明的な雰囲気が好きだ。北上川の河口の両側に造成された東洋一といわれる漁業団地と工業団地は、石巻の将来性をものがったって余りある」と書いた、あの石巻が、まるで色のない風景に変わっているのです。
復興に至る道は厳しく遠いでしょう。まだまだまったく手がつけられていないというのが現状、政治家たちは何をしているんだ!と怒りたい気持ちになりました。
荻の浜までの景色も、本当に瓦礫の街です。人の住む家、ものを売る商店、道ばたを彩る野の花、海に浮かぶ大漁旗で飾られた船や、浜に干された魚網、声高に話し合っていた漁夫や、牡蠣の処理工場のおばさんたち……懐かしい景色が何もないのです。
海は穏やかでした。この海が、あんなに荒れ狂ったのか、信じられない、自然の猛威はどう想像してみても、分かりません。
市の中心部から30分ほどで、荻の浜小学校へ着きました。
高台にある学校は、外見からはあまり被害がなかったように見えます。それでも、「こんな高いところなのに、校庭には船が乗り上げたし、こころまで津波は来たんですよ、回りは瓦礫の山でした」と校長先生のお話でした。図書の本もパソコンも流されたと聞いていたのですが、あまりにもきれいと思っていたら、集落の人たちが、何より先に学校を整備しようと、自分の家は流され避難所に暮らしているのに、集まって周りの瓦礫を運び、泥を洗い流して授業が再開できるようにしてくれたのだそうです。
荻浜小学校の生徒は、1年から6年まで合わせて13人です。「よその学校へ行った子も呼びましたので、当日は20人になります」というお電話を、前日に教頭先生からいただいていました。
仙台のホテルを出発したのが朝6時。途中、石巻で首藤さんと合流、学校へついたのはちょうど10時ころでした。前田さんの車に積んできた、彼からのプレゼントの本と、集めてくださった本などを下ろしていると、「まず野点に―」と誘われました。 小高いところにある学校は、校庭の脇を清流が流れています。その横にテーブルを置いて、お茶を出してくださるというのです。毎年、この学校では、夏休みに入る日にサマーキャンプとして、近くのお寺に宿泊、お茶や座禅などをやっていたのですが、そのお寺が津波で全壊、代わりに学校で野点をすることにしたのだそうです。
お寺の住職さんの奥様である八巻さん、首藤さんの奥様などが点てるお茶を、生徒さんが運んでくれました。テーブルは、津波でどこかから運ばれてきたもの、まわりに飾ってある卒業生の作った旗は、泥んこになっていたものを洗って、ベンチは丸太を利用したとか。
体育館に入って、私たちの授業開始です。
体育館の天井に近い壁には、たくさんの大漁旗が飾ってありました。○組などと書いてあるところを見ると、生徒たちが作ったものでしょう、どれにも、大きな魚の絵が描かれています。波や魚、そう、ここの人たちはみな海で暮らしていた人たちなのです。
もう三十年も前に取材で訪れた荻の浜では、牡蠣を取りに行く船に乗せてもらって冬の海へ出ました。牡蠣処理場のおばさんたちから借りたゴム引きのつなぎを着て、長靴を履いて、海へ出た途端に、ひどい揺れと、襲いかかってくる波、カメラのシャッターをきることも出来ず、ただただ甲板の片すみに座り込んでいました。あのときの、漁師さんや、処理場のおばさんたちは、どうしたでしょうか。みんな日に焼けて、節くれだった手をして、とても親切で気さくな人たちでした。
子どもたちはみな、そんなお父さんやお母さんの姿を見て育ち、海からの収穫物を好んで、元気に成長していたはずです。きっと海が大好きだったでしょう。大漁旗の豊かな色彩、強いタッチの絵を見ながら、今、どんな絵を描くのか、少し不安にもなりました。
最初は、仲間たちと、たくさんの人から集まった品物や本などを紹介、テレジンの子どもたちの絵を数枚見せて、「70年ほど前に、あなたたちと同じような年令の子どもたちが、とてもつらい日々を送っていたことがある」と話しました。テレジン収容所、アウシュヴィッツ、殺されたという事実はすべて省いて、ただ、「絵を描くことは生きる力になる」と教えた先生がいたこと、本当にみんなが元気を取り戻してこんな美しい生き生きした絵を描いたということを話しました。その絵を見て、今も私たちは、子どもって素晴らしいな、無限の可能性を持っているんだなって感動します。あとで、みんなで絵を描き、詩を書きましょう……今、みんなが元気で、荻の浜を昔と同じ美しい街に作り上げるのだって希望を持った絵を描いたら、もしかしたら、70年後に、その絵を見て、日本だけじゃない外国の人までが、荻の浜の子どもたちって素晴らしかったって感動すると思いますよ」という話にしました。
西山さんが、『テレジン もう蝶々はいない』から『フリードル先生の歌』、そして、テレジンの子どもたちの詩をもとにした「虫さん」「庭」を歌い、プレゼントを披露。
画用紙、落書帳、クレヨン、色鉛筆。なかでも、50色の色鉛筆は人気でした。
画家の前田さんから、絵を描くことの楽しさや、何でもいいんだよ、線を引いたり丸を描いたりしていると何かになる…それが面白いよっていう話や、色は、どんな風にして出来たのかという話などを聞き、みな好きなように画用紙に向かいました。校長先生も一緒にクレヨンをにぎり、海と船を描いています。
途中で、山中さんから宇宙へ絵を届けますという、びっくりする話。
26日の朝3時21分に南西の空を見ると、星より光って動く星が見える、それが宇宙ステーション「きぼう」ですという話には、子どもたちだけでなく集まったお母さんたちも興味津々でした。
来年、空を見あげたら、あの星に僕の絵があるって言えるんだよ……大きな夢がふくらみました。
西山お姉さんと一緒に歌おう!
楽しく「マルマルモリモリ」を踊ったり、あの時は怖かったけれど、やっぱり海は素晴らしいよねと、輪になってウェーブをしながら「海」を歌い、まるで、荻浜小学校のことを歌ったような「学校坂道」を歌ったり……
朝日新聞とNHKの取材が入って、ちょっと緊張していた子どもたちも、さいごにみんなで描いた絵を持って記念撮影。みんな笑顔でした!
それから、お父さん、お母さんたちの手づくりの昼食会。私たちも仲間に入って、流しそうめんを楽しみました。おにぎりやコロッケ、鳥のから揚げ、スイカ……こんなに仲良しの学校なのに、夏休み中に、また数人が転校してしまう―転校せざるを得ないと」いう現実があるのです。本当なら嬉しい夏休み、でも、今年は違います。避難所や知人の家で過ごす夏休み、あんなに穏やかに、美しく輝いている海なのに、そこで遊ぶことも出来ない……一日も早い復興を、子どもたちが家族と安心して暮らせる家を、みんなで助け合って生きられる街をと、心から願いました。
『テレジン収容所の幼い画家たち展』開催中の北九州・福岡から、たくさんの本に、小学生からのメッセージをつけて送っていただきました。画用紙やクレヨン、お手紙、素晴らしいプレゼントが届きました。九州と遠く離れた石巻のそれぞれの小学生が、これを機会に仲良しになってくれたら、お互いのメッセージも、絵と一緒に宇宙ステーションに飛ばします。ステキな夢の実現です。
夏休みに入ってしまうので、お返事が遅れることを、九州のお友だち、ごめんなさいね。
宇宙で仲良しになれる日を楽しみに待っていてください。
■□■ 荻浜小学校のおともだちが描いた絵の一部をご紹介ます ■□■
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