子どもたちの残した絵

1945年、収容所が解放されたとき、すでにドイツ兵が重要書類を焼却して逃げ去ったあとの廃墟に4000枚の絵と数十枚の詩の原稿が残されていました。

それを見つけたのは、<女の子の家>の世話役をしていたビリー・グロアーでした。

 

彼は、あの絵の教室の時間、あの笑顔を忘れていたような子どもたちが、まるで生まれ変わったように目を輝かせ、小さくなったクレヨンを握って一生懸命に絵を描いていたのを知っていました。そして、その子どもたちがもう帰ってこないのだということも。

 

だから、彼は、ドイツ軍の倉庫にあった大きなトランクを二つ持ち出し、それに絵を詰めこんで、60キロの道をプラハまで持ち帰ったのでした。でも、その時のプラハのユダヤ人協会は、戦後処理、生き残った人たちの救援や犠牲者の確認など大変な忙しさで、トランクは、誰からも注目されず、地下室へしまわれしまったのです。

 

トランクが開けられ、中に入っていたのが、子どもたちの絵だと分かったのは、戦争が終わって20年近く過ぎたときでした。さいわい数少ない生き残りの人の中に、あの絵の教室のことを知っている人もいました。テレジン収容所の<こどもの家>にいて、アウシュヴィッツに送られ、ガス室で幼い命を断たれた子どもたちの絵だったです。

 

ほとんどの絵には、子どもの名前が書かれていました。
「絵を描いたら名前を書きましょうね。あなたたちには、お父さんやお母さんが、あなたたちを愛してつけてくれた名前があるのよ」
子どもたちの絵の先生 フリードルがそう言っていたのを覚えている子もいました。

 

必死の調査が何年もつづき、ようやくその署名から生年月日、アウシュヴィッツへ送られた年月日を記入することができたのです。

 

今、この絵は、プラハのユダヤ博物館に大切に保管されています。
もともと粗末な紙に描かれ、20年近くも地下室で眠っていた絵は、ひどく傷んでいます。
現在、プラハのピンカス・シナゴーグと、テレジンのメモリアル博物館には、それぞれ数十枚のレプリカが展示されています。

日本では、野村がユダヤ博物館から提供されたレプリカが150点パネルになって、埼玉県平和資料館に保管され、現在も貸し出しを続けています。