テレジン収容所の現実   

今も残る、粗末な三段ベッド
今も残る、粗末な三段ベッド

このテレジンに、1万5000人の子どもたちがいました。
 
子どもたちは、親から離され、<子どもの家>と呼ばれる建物のなかで生活していました。

部屋には三段ベッドがずらりと並んでいます。
それでも、ベッドは足りません。


子どもたちは、一つのベッドに三人も四人もが「イワシの缶詰のように」重なり合って寝ました。

藁の入った布団が一枚と毛布が一枚だけ。寒い夜、みんなで引っ張り合うので、すぐに布団は破れ、藁が出てしまいました。
それでも、新しい布団はもらえません。

 

 

テレジン収容所でスープの配給を待つ人々
スープの配給を待つ人々        (フェルディナンド・ブロッホ作      /テレジンにいた画家)

食事は、
朝は、<コーヒーと呼ばれる>茶色い水
昼は、ピンポン球くらいの小麦粉の団子が一つ入った薄い塩味のスープ
そして、夜は、塩味のスープと 小さな腐りかけのジャガイモか、固いパンが一切という粗末なものでした。

 

そんな食事しか与えられないのに、子どもたちも大人と同じように一日10時間もの労働をさせられていました。子どもたちは、過労や栄養失調で倒れました。そんな子どもたちに与えられるのは、薬や温かいミルクではありません。「もう労働力として利用価値なし」といわれ、貨物列車に乗せられてどこかへ連れて行かれるのです。
 
行き先は<東>と言われていました。

<東>がどこなのか、当時は誰も知りません。
それでも、<東>には、とても大きな煙突があり、臭い黒い煙を一日中休むことなく吐き出していること、そこへ送られた人とは二度と会うことができないのだということをいつの間にか子どもたちまでが知っていました。


飢え、寒さ、親と会えない淋しさ、つらい労働、死の不安……
子どもたちは、笑顔を失い、ただドイツ兵に怒られないようにひっそりと暮らしていました。
 
そんな子どもたちの姿を見たおとなたちは話し合いました。
「あの子たちの笑顔をとり戻しさなければ…」
「たとえ限られた時間でも、生きていることは素晴らしいのだと教えてあげないと…」
「何が、子どもたちの生きる力になるのかしら」
 
――そして、収容所の中に、教室が開かれたのです。
何人もの人が、名乗りを上げました。もと学校の先生だった人、音楽家、詩人、作家。
その中に、一人の女流画家がいました。