テレジン収容所

テレジン収容所の歴史

チェコスロバキアの首都、プラハから北へ60キロほど離れた人口6000人ほどの小さな街、テレジンは、1941年から1945年まで収容所の街になり、ドイツ語でテレージエンシュタットと呼ばれていました。
今、あの当時の世界地図を広げてみるとナチスドイツが支配下においたヨーロッパ21カ国のほぼ中央に位置することがわかります。
そして、東へ直線距離にして本当に近いところにあるのがアウシュヴィッツだということが――。
 
テレジンに送られてきたユダヤ人は、およそ14万4000人。
その4分の1ちかい3万3000人が病気、飢え、過労、そしてドイツ兵による暴行や拷問や刑罰でテレジンで亡くなり、8万8000人がアウシュヴィッツなどの絶滅収容所に送られ、そこのガス室で殺されました。

 

 

テレジン収容所を囲む高い壁
テレジン収容所を囲む高い壁

テレジンの街には、ハプスブルグ王朝時代のオーストリア守備隊の駐屯地がありました。テレジンという地名は、マリア・テレージアからとったといわれています。
駐屯地を囲む要塞の高く厚い土の壁が当時チェコスロバキアに派遣されたばかりのナチス保安警察長官ラインハルト・ハイドリッヒには収容所として絶好の場所に見えたのでしょう。

 

はじめは、この要塞の中が、プラハをはじめとする国内の町や村に住んでいたユダヤ人を居住させる場所として考えられていました。しかし、半年も過ぎないうちに、送られてくるユダヤ人の数がふえ、42年には、ナチスは要塞の外の街に住んでいたチェコ人の家を接収し、人々を他の町へ移住させ、街全体を封鎖して外界から隔離されたユダヤ人のゲットーにしたのです。

 

 

"ARBEIT MACHT FREI" - 働けば自由になれる
"ARBEIT MACHT FREI" - 働けば自由になれる

<ゲットー>というのは、本来は<ユダヤ人居住区>という意味です。


「ユダヤ人がユダヤ人だけで安心して暮らせる場所へ送る、というドイツの布告を信じた人々の中には、シルクハットをかぶり、大きなスーツケースに銀の食器や、レースのテーブルクロスを詰めて来た人もいました。

 

そんな人々は、テレジンの門をくぐり、すべての持ち物を取り上げられたときに自分たちの住むところが決して「安心して暮らす」場所でないことを悟らずにはいられなかったのです。

 

こんな美しい街がゲットーに…
こんな美しい街がゲットーに…

6000人ほどが住んでいた街に、一挙にその十倍を越す90000人が詰めこまれたのです。
公園を囲んで、教会があり、学校があり、レストランや花屋さんやお菓子屋さんがあった街は人であふれ、公園にも道路にもバラックが建てられました。
それでも入りきれない人は、建物の前の階段や道端に寝ました。
当然、水道もトイレも足りません。建物内にも道端にも、ゴミや汚物があふれました。

 

食糧の配給は僅かで、42年には、1万5000人以上の人が飢え、亡くなりました。
ガス室の設備はないのに、ここテレジンに大きな焼却炉が残っているのはこの大量の死者に対応するためだったのです。
 
ここからアウシュヴィッツへ送られ、幸いにも生き残った人の「アウシュヴィッツが地獄なら、テレジンは地獄の控え室だった」という言葉がここテレジンをよく表わしているといえるでしょう。