5月18日、熊谷市の八木橋デパートへ行ってきました。
1991年4月25日、日本で初めての『テレジン収容所の幼い画家たち展』が開催された、私にとっては忘れられない八木橋デパートです。
4月の『アウシュヴィッツと熊谷大空襲』講演会の主催者である米田主美さん(その空襲の日、多くの命が失われた時に新し命として生まれた方)、同誌でミニコミ誌の発行を続けている(26年前の展覧会の時にお会いしていたかも知れない)小川美穂子さんとご一緒に、彼女たちのさまざまな活動のお仲間である大久保由美子さんのご紹介で、デパートの販売促進部長・宮路豊さんにお目にかかりました。
1991年、今から26年前です!
日本で初めての展覧会と書きましたが、チェコスロヴァキア(当時)から、テレジンの子どもたちの絵が海外に出るのは、イタリアについで2回目、日本全国23会場巡回展の第1回、本当に大きなニュースとして取り上げられた展覧会が開かれたのが、埼玉県熊谷市の八木橋デパートだったのです。
(私が貸出交渉をした時は、プラハのユダヤ博物館の方から「世界で初めてのことです」と言われていたのですが、なにしろボランティアの仲間が手伝ってくれて準備を進めていたものの、まだスポンサーも決まらず、本当に実現できるのかしら、と思っている時期に、イタリアの美術館からのオファーがあったとかで、これはもう、先を越されても仕方がないと思ったのですが、でも、その後開催に至った時には、「世界で初めて」と言われたかったなと、ちょっと残念に思ったものでした。)
26年前の新聞記事や写真をお目にかけて、もう一度ぜひ熊谷で、八木橋デパートで開催したいというお話をしました。会場の予定もあり、来年になるだろうと思いますが、ぜひ実現させたいというお返事をいただきました。
帰りに米田さんと昼食に寄った「三船」の宮崎壽子さん(米田さんの同級生)も、「協力しますよ」と力強いお言葉をくださって、熊谷の一日は本当に嬉しく、意味のあるものでした。
昨年3月、これまでいろいろな面でおつき合いのあった友人16人とともに、アウシュヴィッツ・テレジン・リディツェを訪ねる旅をしました。このような旅も、もう4回目です。その旅の記録をまとめた素晴らしい冊子ができ、11月には、埼玉に住む仲間(埼玉文芸家集団の会員でもある)4人で、桶川市のさいたま文学館で、旅の報告を兼ねた作品発表の会をしました。
私は、「人が人を殺すために作った施設、人の尊厳を奪い、命を奪うための場所――人は、そこに立った時、言葉を失ったという。でも、言葉を失っていてはいけない。見て、感じて、語ってほしい」という願いで、この旅を企画していました。
詩人の中原道夫さん、3回目のツアーに続いて二度目の参加の俳人・金子玲さん、3回目に同行した歌人の今井恵子さん、三人は、それぞれ、あの場に立った時の思いを詩に短歌に俳句にしていたのです。
この企画を伝えたところ、以前から何年も続いてテレジン展や講演会を開催してくれていた「福岡 テレジンの会」は、旅に参加した鍬塚總子さん、岩本玲子さんに私も加えて、北九州での「旅の報告会」を開いてくださいました。子どもたちの笑顔を守るために、すべての子どもが幸せであるために、さまざまな活動している二人と、その仲間たちとの再会も素敵なことでした。話は少し脱線しますが、この仲間たちは、今、映画『ニコラス・ウィントンと669人の子どもたち』上映会の企画も進めています。この映画、チェコのユダヤ人の子どもたちを救ったニコラス・ウィントンの実話を描いたもので、とても感動的ですが、現実には、ここで救われたのは幸運な669人の子どもたちだけで、間に合わなかった15,000人の子どもたちはテレジン収容所へ送られ、さらに、アウシュヴィッツへ移送されて殺されたのです。
そして、桶川での講演会がきっかけになって、4月15日には、熊谷市で、中原道夫さんと私、二人の講演と詩の朗読の会を開いていただき、それがきっかけになって、最初に書いた熊谷再訪につながったのです。
いろいろ事情があって、このテレジンのホームページを更新できずにいました。それでも何とかして活動の情報を皆様に送りたいとフェイスブックを始めたのですが、なかなかうまくできずにいます。
でも、これまで26年(4分の1世紀以上―というと、ものすごい年月だと実感できます。今、私が、このテレジン収容所の子どもたちと、彼らに絵を描かせ、明日への希望を持てと励ましながら、子どもたちと共にアウシュヴィッツのガス室で命を奪われたフリードル・ディッカーのことを書いた作品が、小学校6年の国語教科書に載っていますが、それを教えている先生から、「私が生まれる前ですね」と言われ、あらためて、その時間の長さに驚いたことがありました)、私を支えてくださった多くの方、全国各地で展覧会を開き、講演会やコンサートを企画して下さった方、本の読者、ホロコーストを調べていて、私のホームページを見つけたとメッセージをくださった方に、どうしても、全国を回ってここへ戻ってきますというお知らせがしたくて、この原稿を書いています。
26年前、日本で『テレジン収容所の幼い画家たち展』を開催しようとしたとき、友人たちに集まってもらって「展覧会を成功させる会」を作ったものの、何をどこから始めたらいいのかも分からない状態でした。でも、始めに相談した在日チェコ大使館のレボラ書記官が積極的に動いてくださって、プラハのユダヤ博物館からは、「遠い日本の、一女性が、あの絵に心を止めてくれたのが嬉しい」と、原画6点の貸し出し、展示する150点の絵の写真版提供、さらにその写真の日本での永久使用権の許可という好意的な協力があり、その経過を伝え、「あなたの街でぜひ展覧会を!」とよびかけた各新聞の記事のおかげで、全国各地から100件以上の問い合わせがあったのです。
その一つが、熊谷市の八木橋デパートの当時の社長さんでした。「店内にはホールがあります。子どもたちの命のメッセージを伝える素晴らしい展覧会を、多くの市民の方に見せたい」という申し出でした。
私は当時、大宮に住んでいました。やるなら都内からではなく大宮から―というのが私の希望でした。当時、タウン誌を発行していた私は、地方からの文化の発信を考えていました。私たちは、展覧会やコンサート、芝居、映画に都内まで出かけます……だったら、都内から来てくれることはできるはず、と考えていたのです。
大宮は、そごうデパートが開催してくれることになりましたが、会場の都合で日程変更、第1回は熊谷、第2回が、私が日経新聞文化欄に書いた随想を読んで感激したと、自ら名乗りを上げて、素晴らしい形でスポンサーになってくださった、当時の安田火災(現 損保ジャパン日本興和)の池袋ライフプラザ、第3回が大宮、第4回が新座市と続き、さらに長崎へ飛び、鹿児島・徳山……と回数を重ね、各地で大きな反響を呼び「涙、涙の見学者」「感動の声、若者にも」などという新聞の大きな見出しは今も記憶にあります。私は各地のオープニングに出かけました。ご挨拶をし、新聞社の取材、地方テレビ局の取材、ラジオ生放送、忙しく動き回りました。そして、北海道・士別、札幌を終えて、最後、23回目は東京新宿の安田火災本社ビルでした。
原画6点を入れた立派なトランクが2個、パネル140枚を入れた大きな木箱が7個、美術輸送車での輸送でした。
今も、そのパネルは、埼玉平和資料館に保管されています。パネルはかなり傷んでいます。木箱は頑丈なのですが、それでも表面は傷だらけ、次々と貼った送り状の紙が残り、まさに満身創痍です。パネルの傷み具合を見るのが悲しくて、仲間の協力でカンパを募り、数年前に新しく20枚のパネルを作りました。大きな展覧会はできないけれど、生徒に見せたいという小・中学校からのオファーに応えるために、12枚のセットも作りました。幸いに県が、専用のスチールケースを作ってくださいました。おかげで、今、新しいパネルは全国各地へ届けられ、またたくさんの次世代の人に見ていただいています。
先日の八木橋デパートで、宮路さんは「26年前のパネルを展示しましょうか」と言ってくださいました。
仙台では、会場の藤崎デパートの担当の方が「毎日、早く出勤して、パネルの表面を拭いているのです」とおっしゃいました。
「どうしても」とお願いして借り出した原画の一枚が、描いた子供の髪の毛を貼ったものだったのです。コラージュ作品の中の女の子、「多分、毛糸がなくなってしまって、髪の毛をつけられない、それで自分の髪を切ったのでしょう」と、ユダヤ博物館のアンジェラ・バルトショヴァー学芸員が説明してくれたので、そのことを書いた紙をつけてありました。その絵は未完成です。きっと、次の絵の教室で完成させて、名前を書こう……と思ったのでしょう。フリードル先生は子どもたちに「あなたたちには、みんな名前があるのよ、ドイツ兵が番号で呼ぼうと、ブタ、シラミと罵ろうと、そうではない、お父さんやお母さんが愛情こめて考え、つけてくれた名前があるのだから、絵を描いたら必ず名前を書きましょう」と繰り返し言っていましたから。でも、その子に「次の教室」はなかった……その前に、点呼で番号をよばれ、貨物列車に詰め込まれてアウシュヴィッツへ送られてしまったのでしょう。
その説明を熱心に読んでいた見学者は、みな、ガラスを隔てて、その髪の部分を撫でるのでした。<手を触れないでください>という貼り紙を外そうと決心したのは、第1回目からでした。私たちがそばにいれば事故は防げる、ガラスの汚れは拭けばいいと考えたのでした。
藤崎デパートの担当者は、そのガラスだけでなく、パネル一枚一枚を毎朝拭いていたというのでした。
それは、最終日、片付けが終わっての時でした。
「毎朝、今日もたくさんのお友だちが見に来てくれるよと話しながら拭いていたのです。もう明日から、それがないと思うと寂しい」と、彼女は涙をぬぐいいました。
金沢では、当時の三和小学校6年生が、親の許可を得て、担任の、今は亡き奈良先生とともに後片付けに参加、木箱にしまいながら、それぞれが、あのテレジンの子どもたちに語りかけました。
札幌では、木箱を載せた輸送車の前に並んだ大勢の協力者たちが、「さようなら」と口々に叫びながら泣きました。和泉市では……、鹿児島では……書き始めたらきりがありません。本当に多くの人に愛されてきたパネルでした。だから余計に、傷んだのを見るのはつらかったのですが、北九州でも、「前のパネルが見たい」といった人がいました。
26年過ぎた今、もう一度、あのパネルの前で、多くの方とお会いできたら――。
それを夢見て、もう少し元気で生きていなければと思っています。
その時はお知らせします。待っていてください。
2017年5月21日
『テレジンを語りつぐ会』 野村 路子
26年前の『テレジン収容所の幼い画家たち展』
あの当時のことを考えると不思議な気になります。
まだワープロは一般の人が使えるものではなかった……テレジンについて最初の本を出す時は原稿は手書きで、あの後、腱鞘炎になり、富士通にいた友人からワープロの話を聞いたけれど、私が買えるような金額ではなく、レンタルを勧められたのを覚えています。だから、「展覧会を成功させる会」のニュースは、これも手書きで、コンビニでコピーして送っていました。もちろん、携帯電話はなかったです。展覧会が始まって、私が開催地に出向いている間、ボランティアの友人たちが事務所に借りたアパートの部屋で作業してくれたのですが、私に連絡がつかなくて困って、現地へ着いたらすぐに公衆電話から連絡するように――と厳しく言われていたのも懐かしい思い出です。
古い新聞を出して見たら、活字が小さいのにも驚きました。今の活字とは違います。そんな古い記事の切り抜きは、みんな茶色く変色し、しかもセロテープの跡があったり、きれいなものではありません。
でも、26年前の大事な記録です。先に書いたように、当時はデータで保存することもなかったので、未発表のものも多いのです。それで、26年前を振り返り、当時の記録の一部をホームページに残しておきたいと思います。
野村 路子
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