解放70周年を迎える今年、早稲田大学において、アウシュヴィッツを考えるシンポジウムが開催されることを嬉しく、本当に意義あることだと思います。
私は、1月27日にアウシュヴィッツで開かれた記念式典に参加させていただきました。ホロコーストを生き延びた元収容者が300人も集まったということが大きなニュースになりました。彼らは皆高齢、80代、90代の方ばかり、他の出席者、多分、遺族や関係者の方もほとんど高齢者でした。
私自身がホロコーストにかかわる仕事として続けているのは、テレジン収容所にいた子どもたちが描いた絵を紹介することです。あのころ、つまり日本も戦争中であった、あの第二次世界大戦当時、ナチス・ドイツによるユダヤ人絶滅作戦が遂行されていた当時、10代の子どもだった彼らがすでに85歳になっています。
今、私は容易にアウシュヴィッツとかホロコーストという言葉を使ってしまいましたが、若い世代が、それをどこまで理解して下さるか、シンポジウムでは、三人のパネリストが、それぞれの角度から学問的にそれらを語ってくださいますが、私は研究者ではない、いわば生き残った方から聞いた話を伝える語り部のような立場で、予備知識として知っておいていただきたいことについて、少しだけお話しさせていただきます。
若い方から「ホロコーストって何ですか」と聞かれることが多いのですが、1930年代後半から45年の戦争終結までの間に、ヨーロッパに住む1100万人のユダヤ人を絶滅させようという組織的な抹殺計画のこと、結果として600万人が犠牲になった事実を「ホロコースト」と言っていました。でも、85年にクロード・ランズマンが、あの膨大な証言をまとめた映画に「SHOAH」という題をつけました。彼は、ホロコーストは「神にささげるいけにえ」の意味であり、あの犠牲者は神への生贄ではないと、それよりはヘブライ語の「絶滅」という意味のショアの方がふさわしいと語っていました。
アウシュヴィッツという言葉ですが、これは、ポーランド南部のオシビエンティムという町に、1941年に作られた絶滅収容所の名前で、第二収容所と言われるビルケナウと二つ―正確にいうと、モノビッツあるいはブナという労働収容所(あとでパネリストのお一人が話すプリーモ・レーヴィーがいたところ)を入れた三つの収容所を称して、アウシュヴィッツと呼んだり、書いたりしていますが、正式にはアウシュヴィッツ=ビルケナウという方が正しいのです。
ただ、一般的には、アウシュヴィッツという言葉は、当時ヨーロッパ中に作られた、人を殺すための施設、人を理不尽に監禁拘束する施設、そして、人間の尊厳を無視した暴虐行為が平然と行われた場所の代名詞として使われています。
先ほどちょっと触れたテレジンのことを語っていると、「あら、アウシュヴィッツではない収容所もあったのですか」などと言われます。収容所は何千カ所もあったのですよ、と私は答えているのですが、たとえば、アンネ・フランクがチフスで死んだベルゲン・ベルゼンとか、あのノーベル賞作家のエリ・ヴィーゼルがいたブーヘンヴァルト、コルチャック先生と子どもたちが殺されたトレブリンカ、映画「シンドラーのリスト」で有名になったプワショフなど聞いているはずなのに、ナチスの収容所イコール アウシュヴィッツになっているのです。
同じことは犠牲になった人についても言えます。確かにナチスの政策はユダヤ人絶滅でしたが、それだけではありません。
今、記念タワーで「アウシュヴィッツを生きた画家」というコシチェルニャックの展覧会をしています。この画家も、同時展示をしているヤン・コムスキーもポーランド人です。彼らは、反ナチスの抵抗運動をしていたので捕えられ、アウシュヴィッツへ送られました。またコシチェルニャックが描いているコルベ神父の絵がありますが、そのコルベ神父もポーランド人の聖職者です。当時のナチスは、ポーランドの知識階級の人たちを、ユダヤ人と同じように、自分たちの野望を実現するための邪魔者としてすべて殺そうとしました。またロシア人の捕虜やロマ(ジプシー)も大量に殺されています。同じドイツ国民でも、反政府の人はもちろん、身体や精神に障害のある人は無用の存在として殺しました。
大人だけではありません。テレジンの子どもたちで代表されるように、幼いユダヤ人の子どもたちもみな殺戮の対象でした。これは、子供を残しておけば、次の世代が生み出されてしまう、一民族を根絶やしにするためには、まず子どもから殺そうという考え方だったのです。
アウシュヴィッツで何があったのか、そこにいた人々は何を考えていたのか、その体験はどう後世に伝えられるのか…多くのことが、後のパネリストの方のお話で聞かれると思います。
私は研究者ではない、語り部だと先ほど申し上げましたが、四分の一世紀にわたって、生き残ったテレジンの子どもたちから、いろいろ話を聞いてきました。収容所での一日の食事のことや、三段ベッドの一つの棚に五人が寝るときどうするのか、親とはどんな別れ方をしたのか、孤児になってからの人生をどう生きてきたのか、今、あのころをどう記憶しているのかなどを聞いてきました。
私が会ってきた生還者たちはみな、「聞いてくれてありがとう」と言いました。はじめは、なかなか話したがらなかった人たちです。それが、何度か会って親しくなっていくうちに、子にも孫にも、なかなか語れなかったけれど、年老いてきて、誰かに語っておきたくなった、その時に聞きに来てもらえてよかったと言ってくれました。
エリ・ヴィーゼルは、「戦後、私は語り部となることによって、世界を変えることができると考えていたのです」と書いています。
「生き残った人間は話すのが義務」だと言った人がいました。
「話すためには思い出さなければならない。本当は思い出したくないことばかり、封印しておきたい記憶だけど、でも、私は生きているのだから、語らなければいけないのです」と言ったのは、12歳でテレジン収容所へ送られ、その後、アウシュヴィッツへ送られ、さらにドイツ国内を転々とした後、ベルゲン・ベルゼンで救出されたディタ・クラウスという女性でした。
またいつか、そんな生存者から聞いた話も聞いていただけたらと思いますが、一つだけ、重大なこと、これから先、どなたか、若い研究者の方が取り組んでくださったらいいなと思う、私には少し荷が重いテーマをお伝えしたいと思います。
それは、アウシュヴィッツの生存者の子どもたちの精神疾患ともいうべき心の傷のことです。PTSDについては、さまざまな出来事の度に語られるようになりましたが、彼らは、実際には傷を負うような体験をしているわけではありません。両親が体験しているだけなのです、そして、両親は子どもにほとんど何も語っていないのです。
子どもたちは、自分の親が、友だちの親とどこか違うと感じる、何か違和感を感じる、親と自分を隔てる何か厚い壁の存在を感じるのです。それが、どう子どもたちの心を傷つけるのか…。
自分たちがつらい体験をしている分だけ余計に、子どもたちには幸せになって欲しいと親が願うのは当然なのでしょうが、そのために、子どもに対して秘密を持ったり、過大な愛情をかけたりしてしまう…それが、子どもを不幸にしているとしたら、自分たちはどうすればいいのか…。何度も会って親しくなったディタ・クラウスだからこそ聞かせてくれた話です。
彼女は、85歳になった今、50歳を過ぎた長男が、親しい人の別れ―それは決して長いものではなく、数日間でも、に異常反応し、変調をきたしてしまうことに心を痛めています。
70周年式典に出席した、その夜、日本人がイスラム国で処刑されたというニュースを見ました。悲しいニュースだと、何人もの人から言われました。彼らは、民族や宗教に根差した紛争やテロが頻発する現在の世界の不安を、誰よりも知っているからなのだと思いました。「二度と同じ悲劇を繰り返さないで」という言葉が、式典の中で何度も繰り返されました。「そのためには、事実から目を背けず、伝えなければならないのだ」と。
私は、わずかだが、そんな生還者の声を聞いてしまいました。知ってしまいました。
だから、私もまた伝えなければならないと考えています。