2015年は、第二次世界大戦終結から70年にあたる年です。世界の各地でさまざまな形で、戦争の悲劇を思い出し、「二度と繰り返さない」という誓いを新たにする行事が行われると思われます。
1月27日、ポーランドのオシフィエンティムでは、『アウシュヴィッツ=ビルケナウ ナチス・ドイツの強制絶滅収容所(1940年-1945年)解放70周年記念式典』が行われました。私(野村路子)も招かれて、この式典に出席してきました。(関連情報)
ドイツ、フランス、オーストリアはじめ多くの国の首脳が参列する中、「日本とロシアは欠席」と、ポーランドで見たテレビでも報じていました。どうして日本からは行かなかったのか? そんなことも考えたいのですが、それはともかく、世界各地から、ホロコーストを生きのびた300人を含む、多くの関係者が集まりました。
生存者はみな高齢になり、100歳を超す人もいて、これだけ多くの方が集まる最後の機会になるだろうと主催者も語っていました。
帰国してから聞いたのは、「シリアでの日本人人質殺害のニュースが大きかったからか、予想よりは小さな記事だけだった」という人、「いやあ、すごい式典だったと日本のテレビでもやっていましたよ」という人…さまざまな意見でした。
素晴らしい式典でした。ポーランド語で語られるものをイヤホンで同時通訳の英語で聞くというもので、正直なところ、二つの声が重なって聞こえ、ほとんどわからないのが実情でしたが、会場に作られた大きなモニター画面に映る、話している人の表情、声…時に遠くを見つめ、声を詰まらせ、涙をぬぐう、それだけで、彼らの言いたいことはすべて伝わってくるような気がしました。
客席のあちらこちらで涙を流す人がいました。終盤、朗々たるカディッシュの声が、「死の門」の前に作られた大きなテントの中に響き渡ると、意味は何も分からなくても、涙が出てきました。これまでにお会いしてきた「生き残った人」の顔が浮かんできました。今も元気な、少女のころにテレジンからアウシュヴィッツに送られたディタ、ヘルガ、テレジンで生き残ったラーヤ、95歳を過ぎて今もテレジンの資料追加に力を入れているアリサ、私を孫のように可愛がって迎えてくれた、今は亡きビリー…。
そして、もう真っ暗になったビルケナウの、あの線路の上を歩いて慰霊碑にむかう生存者たちの列がモニターに映し出されました。雪が舞っていました。
70年前の1月27日、解放の、あの日はマイナス27度という寒さだったということです。
70年たったこの記念すべき年に、早稲田大学構内で、コシェルニャック展(同時展示・ヤン・コムスキー)が開かれます。
(※画像をクリックすると拡大でご覧いただけます 【アウシュヴィッツ解放70周年記念事業】 真実を伝え続ける絵画 アウシュヴィッツに生きたM・コシチェルニャック展 イベント情報)
M.コシチェルニャック、J.コムスキー。アウシュヴィッツの地獄を生きぬき、その事実を伝えることを「生き残った人の義務」と言って、描き続けた二人の画家。今、ここで、その展覧会を開催できるきっかけとなったのは、アウシュヴィッツ解放50周年の時でした。
ほるぷ出版から記念出版『写真記録アウシュヴィッツ』(全6巻)の企画・編集の依頼を受け、アメリカ・ドイツ・イスラエル・ポーランド・チェコなどの幾つもの博物館を訪ね、膨大な資料を見せていただいている中で、私は一つの大きな問題にぶつかりました。
「ポグロム」と呼ばれる反ユダヤ主義の動きからホロコーストに至るまで、写真は見ることが困難なほど大量にあるのだが、そのすべてが、ナチス・ドイツつまり加害者側が撮った写真ばかりなのです。虐げられ、殺されていった人々の目から見たものはない……これでは、どんなに文章で補っても、ナチスの行動の記録になってしまう…そのときに、頭に浮かんだのが絵の存在でした。
あったのです!あちらこちらの収容所で、人々はさまざまな絵を描いていたのです。それらは、どれも素晴らしいものでした。描かずにはいられない熱い思いが伝わってくるものばかりでした。
その絵を借り出す交渉の中で、コシチェルニャック夫人(ウルシュラ)から夫の死(93年)を伝えられ、コムスキーからは「会って絵を見せる」という快諾のお手紙を受け取ったのでした。二人の絵は『絵画記録…』に掲載しただけでなく、それぞれの「大勢の日本の方に見てほしい」という強い要望にこたえて、二冊の画集を出版することになりました。(『地獄の中の愛』コシチェルニャック画集・『絶望の中の光』コムスキー画集 いずれもルック刊)
そして、喜んだウルシュラから「夫の絵を買い取ってくれいか」という依頼を受けたのです。当然断りました。「日本の、しかも一個人が所有すべきものではない」。でも、再三の依頼に、私は心を決めました。
どこかで、誰かが守らなければいけない貴重なものだと思ったこと、そして、収容所の悲惨さを描きながら、人間の生きる力、尊厳を感じさせる絵の魅力、描いた人の精神の高貴さに心を揺さぶられていたことが理由でした。
それから20年が過ぎました。
私も年をとりました。20年前のように仕事をすることは難しくなってきました。絵を保管するということは、とても大きな経費が掛かるのです。個人の力で、自分の生活を削って絵を守り続けていくことが無理になってきたのです。
同時に、画家の魂を故国に帰らせてあげたいという思いも強くなってきました……アメリカ・ワシントンに住んでいたコムスキーも亡くなり、作品はアウシュヴィッツ博物館に入ったと聞きました。
コシチェルニャックの絵も、彼の故国であるポーランドに帰りたいのだろうと思うようになりました。そうなるのがいいのだと思います。
正直に言って、絵と別れるのは惜しい。とても淋しいのですが…。
これがおそらく日本で最後の展覧会になるだろうと思います。戦争終結・アウシュヴィッツ解放から70年、この機会に、こんなことがあったという事実を多くの人に知ってほしい。そして、考えてほしい、二度と同じ悲劇を繰り返さないために、何をすればいいのか……そのいい機会だと考えます。
当時、収容所の中には工房があり、画家たちは「仕事」として、命令された絵を描いていました。暴虐と殺戮の繰り返される場にいながら、無関係な絵を描いていることに満足できなくなった画家たちは、命がけで真実を描こうとしました。
絵の中には、日本でもよく知られるコルベ神父の最期までを描いた絵もあります。画家は、神父の「あなたは生きて真実を伝えねばいけない」という言葉を力に生きのびて、生涯、アウシュヴィッツの事実を伝える絵を描き続けたのです。
コシチェルニャックは、1945年になって、アウシュヴィッツからエーベンゼーに、いわゆる『死の行進』で移送されました。エーベンゼー収容所で救出された直後に、解放したアメリカ軍の最高司令官(当時)のアイゼンハワーと、パットン大佐の姿を描いたものもあります。これらは、とくに、芸術的価値だけでなく、歴史的にも大きな価値のあるものです。
同時開催として、ヤン・バラス・コムスキーの絵のコピーを展示します。同じ時期にアウシュヴィッツの工房にいた仲間。彼は、戦後もずっとアウシュヴィッツの真実の姿を描き続けました。
日本では、最後の展覧会になるだろうと思います。戦後70年が過ぎましたが、世界のあちらこちらで紛争やテロは絶えません。そんな時だからこそ、多くの方、とくに戦争を知らない若者たちに、この絵の前に立ってほしいと思います。
2015年3月9日
テレジンを語りつぐ会・代表 野村路子
≪関連情報≫ 『地獄の中の愛 ミエチスワフ・コシチェルニャック』