1990年、はじめて訪れたイスラエル。私は、『Beit Theresienstadt テレジンの家』に近いナターニアに滞在する4日間で、二人のアリサさん、ビリーさん、ディタさんと、4人のテレジン収容所の生き残りの方と出会いました。
ディタさんは、約束どおり、翌朝、車でホテルまで迎えに来てくれました。自宅に招いてくれたのです。青い海の近くにある白い家、というのが第一印象でした。庭にはさまざまな花が咲き乱れて「キレイ!」と言いたくなるような家。そこに、ディタさんは、ご主人のオットーさんと二人で暮らしていました。
オットーさんも、ホロコーストを生きのびた一人です。二人が出会ったのは、解放されて数年後、故郷のプラハでした。両親も祖父母も親戚もすべて失って、たった一人生き残ったディタさんは、世話になっていた施設を出て、どうやって生きて行こうか、不安でいっぱいでした。
戻ってきたプラハの街は、幸い爆撃にあっていなかったため、以前の街と変わらない景色でした。
「…そう、あの頃,テレジンの送られる前のプラハの街は、どこへ行ってもナチスのカギ十字の旗があったけど…それはなくなっていたわ。あの恐ろしいドイツ兵の長靴の足音も聞こえなかった…まだ、幸せだった時代の、学校へ通った道、お母さんとお買い物に行った道、懐かしいはずの景色なのだけど、何かが違うのです。たった一人になって歩く街は、見知らぬ街のようでした。
モルダウ河の近くにあったアパートメント、あそこが私の家だった、と思ったけれど、階段を上がっていく勇気はなくて、前を通り過ぎて、橋まで行きました。カモメが飛んでいましたよ。学校へ通っていたころは、よく川岸へ降りて、ハクチョウやアヒルにパンくずを上げたっけ、ああ、あの木の下で、友だちと遊んだな…なんて、何を見ても、悲しくて、淋しくて、泣き出しそうになって歩いているときに、友だちのお兄さんに会ったのです」
それが、オットーさんだったのです。彼もまた、たった一人になってプラハへ戻ってきたのでした。
生きのびて…
ディタさんとオットーさんは、肩を寄せ合うように一緒に暮らし始めました。「お互いに、誰か、そばにいてくれる人、何も話さなくても分かってくれる人が必要だったのよ」とディタさんは言いました。一緒にいるだけで、少しは心が安らいだのだと。
でも、悲しみがなくなったわけではありません。プラハの街には、思い出がありすぎました。
どこを歩いても、何を見ても、家族や友だちを思い出してしまうのです。何度も何度も泣きました。いくら泣いても、もう帰っては来ないのだとわかっていても、10代の少女には、失ったものは大きすぎました。一人ぼっちになってしまったことを認めることはつらすぎました。
しかも、戦後のチェコスロバキアは、ソ連の支配のもと共産主義政権になっていたのです。生活の上でも、いろいろな困難がありました。ここにいては、幸せになれないという気がしたのです。では、どこへ行けばいいのか…当時、ヨーロッパのどの国でも、生きて収容所から帰ってきたユダヤ人を巡る問題は深刻でした。彼女たちのように、国の体制が変わったとは言っても、故国に戻れた人はまだ恵まれた方で、生き場のなくなった人たちがたくさんいたのです。
多くのユダヤ人たちは、パレスチナで新しい生活を始めることを望んでいました。ディタさんとオットーさんも、新しい人生を始めるには、故国を離れ、パレスチナへ行くことを決めました。
でも、1945・6年当時、パレスチナへ行くことは容易なことではなかったはずです。
私は、『栄光への脱出』という映画を見た記憶がありました。「エクソダス号」という、生きのこりのユダヤ人を大勢乗せた船、パレスチナへの入国を拒んで銃を向けるイギリス軍…あの映画を見たころの私は、ホロコーストに関わる仕事をすることも、収容所の地獄を生きのびた人たちと話をすることも考えてはいなかったのです。だから、記憶は曖昧だが、それでも、当時のユダヤ人たちが置かれていた不幸な状況と、彼らにとって、パレスチナが約束された聖地であり、それは力ででも奪還しなくてはならないという強い意志を持っての行動だったことなどは覚えていました。
その「約束された国」へ行くまでに、ディタさんたちがどれほどの苦労をしたかは、聞いていません。聞くことができずにきたのです。
確か二回目のイスラエル訪問でディタさんと会ったとき、私はディタさんに質問をしたことがありました。
「あなたたちは、差別や排斥による悲劇、戦争の愚かしさを、いちばんよく知っている人たちなのに、なぜ、また争うのですか?」と。
そのときは、直前に、イスラエル兵士がパレスチナの人々が集まる礼拝の場で銃を乱射するという事件があって、エルサレムの街のあちらこちらに、報復の決意を示す黒い旗が掲げられ、どこへ行っても、どうにも落着けない、ぴりぴりと緊張した雰囲気でした。実際に、私の滞在中に、パレスチナ青年の自爆テロによるバスの爆発もあり、街の中は、キリストがゴルゴだの丘に向かって歩いたビア・ドロローサにも、教会の前にも、ホテルやレストランの入り口にも、バスの中にすら、銃を肩にした若い兵士の姿が見られ、私には、まるで戦争前夜のような不安な日々だった時です。
その質問に、ディタさんの表情が変わりました。優しい笑顔だったの彼女の頬が紅潮し、口調が強くなりました。
「日本人は、パレスチナの味方なの?」
テルアビブのロッド空港で、日本人の岡本幸三ら赤軍派が銃を乱射した事件、その犯人をふくむ過激派と呼ばれた犯罪者らが、その後のエア・ジャックの人質との交換で、刑務所から出され中東へ入ったという、今では遠い過去のことのようになっている事件。それが、イスラエルの人々の記憶には生々しく残り、日本人への見方の根底にあるのは、そのころ、あの国を訪れてわかっていました。
「あなたたちのように、常に、自分の国があって国から守られている人には分からないのよ! 私たちは、あの頃、自分の国がなかった、だから誰からも守られず、殺されたのよ。私はもちろん、私の両親はチェコで生まれ、チェコで暮らしていたのよ。でも、チェコ人ではなかったから、あの国で守ってもらうことができなかった。
ここ、イスラエルは、私たち同胞がやっと得た、私たちの国として認められているのよ。それを手放すことも譲ることもできないわ」
……故国と思っていた国から追われ、さらに、自分たちの「約束された国」と思っていたところからも、一度は入ることを拒まれた、そんな体験をした人に、私は、それ以上の質問ができずに、今日になっているのです。
1948年5月、イスラエルという新しい国家が創設され、それまで難民生活を強いられていた、生き残ったユダヤ人たちは、続々とイスラエルへわたりました。そして、荒れた土地を開拓したのです。
広大な果樹園と畑、牛や羊を飼っているキブツ ギヴァット・ハイムで、アリサさんは、「乾いた白い砂と石ころだらけの土地だったのよ。草も生えないような…。バラックに寝泊まりして、石を掘り出し、土を耕し…大変な労働だった。みんなが力を合わせて、朝から晩まで働いて、そんな荒れ地を緑の地に変えたのよ。
海の水を真水に変え、灌漑用水を引いて、私たちの頭脳と勤勉がなかったら、ここは今でも、荒れ果てた砂漠だったはずよ」と言いました。
オリーブしか育たないと思われる荒れ地に、今は、スプリンクラーがあって、新鮮な野菜も、オレンジも収穫できるのです。
ディタさんたちも、キブツで働き、生活が安定してから、オットーさんとディタさんは学校に通って学び、教師になったのです。
私がはじめて会ったころ、二人はすでに教師を辞めて、オットーさんは小説を書き、ディタさんは絵を描いて生活していました。やっと得た平穏な生活だったのです。
……だからこそ余計に、私は、自ら収容所体験を語りましょうと名乗り出てくれたディタさんの勇気と好意に深く感謝しているのです。
私は、今、講演会などで著書にサインを求められると「知る勇気 伝える努力」あるいは「いのち 平和 そして 出会い」と書きます。
どちらの言葉も、「思い出すことはつらいけれど、生きているのだから語らなければならない。語ることが私の義務」と言ってくれたディタさんへのオマージュを含めた私の思いなのです。
ディタさんとお母さんのこと、お母さんの機転で、年齢を偽ってアウシュヴィッツでの‟選別“を免れた話、ベルゲン・ベルゼンで救出された後も、お母さんが粉ミルクを少しずつ与えるという配慮をしたため、彼女は健康を取り戻すことができたという話などは、これまで、私は『テレジンの小さな画家たち』『子どもたちのアウシュヴィッツ』『フリードル先生とテレジンの子どもたち』などの著書で繰り返し書いてきました。
それは、ぜひ、それらの著書で読んでください。
ここでは、これまであまり書いていなかったエピソードを中心に書こうと思います。
日本へ招いて
1991年、『テレジン収容所の幼い画家たち展』が、日本で初めて開かれたとき、ディタさんを日本へ招待しました。ディタさんとラーヤさんが、テレジンに送られる前、幸せだった子ども時代に友だちだったこと、そのころはまだ、お互いの無事を確認し合っているだけで会うこともできずにいる(社会主義時代のチェコスロバキアでは、海外との往来は自由ではなかった)ことを知って、二人を、日本で対面させてあげたいと思ったのです。
「生きていてよかった!」と二人が出会えたら…という私の夢が、当時、展覧会の後援者であった安田火災海上保険株式会社(現在の損保ジャパン)のご協力もあって実現する予定だったのですが、残念ながら、ラーヤさんが出発数日前に体調を崩し、来日が不可能になって、結局、ディタさんと、当時のプラハのユダヤ博物館の学芸員アンジェラ・バルトショヴァさんを、迎えることになりました。
全国23会場を巡回する『テレジン収容所の幼い画家たち展』は、埼玉県熊谷市からはじまって、池袋、大宮市(当時)、新座市から、長崎、鹿児島へ飛んで、山口県徳山市を終えて、8会場目に当たる大阪府和泉市で開催中でした。
イスラエルに住むディタさんと、プラハに住むアンジェラさんは、パリで落ち合って日本へ来ました。二人とも、はじめての海外旅行でした。成田空港到着時に、テレビの取材があり、バスで都内へ入り、東京駅近くのホテルのチェックイン。落ち着く間もなく、イスラエル大使館へ表敬訪問。
その後、銀座での夕食には、チェコ大使館のレボラ書記官も同席。美しく盛られた懐石料理に歓声を上げ、運んでくる和服姿の女性にカメラを向けるディタさんの笑顔。展覧会を開くことはもちろん、こうして日本にお招きするにも、本当に、今になっては考えられないような大変な交渉や打ち合わせが必要だったのですが、やって良かった! お迎えできて良かった! と、嬉しくなるような笑顔だったのを、今もはっきりと覚えています。
翌朝、新幹線で大阪へ。
朝早いので、ホテルで朝食用のサンドイッチを用意してもらいました。ユダヤ教の信者の守らなければならない戒律、その中でも、食事については「コシェル(コーシャ)」という難しい決まりがあることを、私は一生懸命調べていました。
ユダヤ人は、魚は、鰓(えら)と鱗のある魚しか食べてはいけないのです。貝はダメです。豚肉もダメ、牛肉は特別の方法で処理したものだけ、しかも血抜きをしたぱさぱさのものしか食べられません。(エルサレムの素敵なレストランで、ステーキのブルーベリー・ソースなんていうメニューを見つけて注文、まったく美味しくない肉にびっくりした経験があります)
前の日の夕食は、前菜からはじまって、お刺身、焼き魚、てんぷら、煮物など、懐石の献立に問題はないだろうと考えて用意したものでした。お刺身はマグロと鯛、てんぷらは野菜だけ、煮物には、野菜のほかに豆腐と生麩だけ…私なりに、考えて特別に注文したものでした。
アンジェラさんは、何でも「おいしい」と食べました(そのことで、興味深い事件があるのですが、それは後で)が、ディタさんは、お刺身も、野菜の煮物もてんぷらも、少しずつ食べただけで、お吸い物に入っていた数本のそうめんと、白いご飯と漬物がいちばん気に入ったようでした。
The food is traditional Japanese, it comes in tiny dishes, each containing one or two bites, beautifully disguised as flowers or leaves in pink, yellow, green, red or black. Things that look like sweets are in really sour pickles, the tea tastes like soup and noodles turn out to be thin stripes of radish. The meal is full of surprises, and I try to use the chopsticks to the hilarity of the company.
これは、彼女がイスラエルに帰った後、私に送ってきた、友人たちに日本訪問の報告をしようと書いた長い文章の中にあったものです。
(今の彼女は、毎年、一か月もプラハに滞在、そのついでにパリやウィーンやブダペストに寄ったと絵葉書を送って来るくらい、海外旅行は当たり前のようになり、どこの街へ行っても日本料理の店があって、いろいろ知る機会が多くなっていますが、この報告記は、1991年当時を思い出す興味深いものになっています。)
肉がだめなら、ハムもダメかな…? 乳製品と肉を同じ食卓に並べるのがダメというから、ハムとチーズもダメ? 新幹線の中で食べるサンドイッチも、本当に悩みに悩んで注文しました。キューリとトマト、卵の2種類だけでした。
ディタさんは、二切れほど食べて、箱のふたをしました。
「美味しくなかった?」「いいえ、美味しいわよ」
「サンドイッチは好きじゃないの?」「トマトとキューリのサンドイッチは好きよ」
アンジェラさんも、同行の、私の娘・亜紀も私も、小さな一箱では物足らないのに、ディタさんは食べないのです。
「私たちは、少ししか食べられないの。昨夜の食事も、本当に美味しくて嬉しかったのよ。でも、食べられないの。私だけじゃない、オットーもそうよ、他の生き残った人たちも皆そう。収容所にいたころ、ずっと食べていなかったから、胃が小さくなっているのだって言われましたよ。食べたくても食べられないの」
大阪に着けば、和泉展の主催者たちが出迎え、昼食の席も予約ができているはずです。私は。彼女の残したサンドイッチの箱を受け取ろうとしました。一緒に捨てるつもりだったのです。
その時の彼女の反応は、今も忘れられません。怒りの表情。強い力で、私の手から箱を奪いました。
「これは、私の」と言ったのです。
「でも、もう食べないのでしょう?」
「今は食べないけれど、しまっておくの」
昼食は別に用意されていること、ちょうど梅雨の晴間でむしむしと暑い日だから、持ち歩くと傷んでしまうと、娘が説明しました。でも、彼女は頑として「捨てるのは嫌、持って行く」と言うのです。私たちはあきらめて、彼女が、残り物のサンドイッチを大切そうにバッグにしまうのを見ていました。
そのサンドイッチは、結局、夜、ホテルに着いて部屋の前で別れるときに、私の手に渡されました。
「今日は暑かったから、腐っているといけないから…、捨てましょう」という説得にやっと応じてくれたのです。
「分かっているのよ。捨てる方がいいのだって。ランチもディナーも十分に用意してもらって、満足しているし、サンドイッチの残りを取っておく必要がないことも分かっているの。
でも、捨てられないのよ、こんなパンがあったら、誰かの命が救える、3・4日は命をつなげる…そう思ってしまうの」
私と娘は、部屋のごみ箱に、彼女から受け取った箱を捨てながら、なんとなく言葉を失って顔を見合わせていました。少ししか食べられない…10代の成長する盛りに飢えていた人たち、わずかな配給のパンを隠し持たなければならなかった日々、「捨てましょう」と簡単に行ってしまった自分。
あの日のことは、忘れることができません。