コシチェルニャック展のことをお知らせしたり、被災地・石巻訪問記を書いたりで、『テレジン再見』をしばらく怠けてしまいました。折角読んでくださっていた方にはお詫びします。
その間に、イスラエルに住むディタ・クラウスさんとも、何回かメールのやり取りをしました。
“It’s awfully hot every day in Japan” という私のメールに、彼女は、「日本に招いてもらって、たくさんの人に出会ったことが忘れられない。素晴らしい記憶がいくつもあるが、その一つは、あの日の日本の暑さ!」というメールをくれました。
1991年6月24日が、彼女が日本の土を踏んだ日でした。梅雨のさなかだったのですが、晴れると暑く、しかも、イスラエルの、気温は高いけれど、からっと乾いた空気に慣れていた彼女には、成田到着の時から「Hot! Hot!」と何度も繰り返していました。
ディタさんは、これまでにお会いした“テレジンの子どもたち”のなかでも、会った回数も、文通もいちばん頻繁で、ナターニア自宅にも、プラハのアパートメントにも招いていただき、親しくしている人です。
そして、生き残った方に会いたいと願い、交渉を進めながらも、どこかで躊躇いを感じていた私に、会うこと、会って直接話を聞くことの大事さを教え、背中を押してくれたのは、彼女との出会いがきっかけだったのです。
はじめて、ディタさんに会ったときのことを思い出していたら、偶然にも、アリサ・シラーさんから久しぶりのメールがきました。昨年から連絡が途絶えていました。毎年末に、私が日本の美しいカレンダーを送ると、届いていたグリーティングカードも来なくなって、ちょっと不安になっていたところだったので、お元気でいることを知って、本当にうれしくなりました。
アリサさんは、イスラエルのキブツ<Givat Chaim=Ihud ギバットハイム・イホッド>にある資料館<Beit Theresienstadt テレジンの家>の館長さんだった人です。
ご主人が亡くなり、仕事のパートナーだったアリサ・シェックさん(シラーさんはAlisah , シェックさんはAliza
とスペルが違うのですが、私はいつも、二人のアリサさんと呼んでいました)が亡くなり、「片腕を失い、さらに片足も失った気分だ。私は、これまでにも、あまりにも多くの人を失っている。もう、これ以上、近しい人を失う悲しみには耐えられない」という手紙には、あのホロコーストを生き抜いてきた人たちの絶望的なまでの喪失感が感じられて、どう慰めたらいいのか分からなくなったこともありました。
そのアリサさんからメールが来たのです。
Dearest Michiko!
I just held your book in my hands and I am trying to reach you, after such a long time.
I really hope, that you and your daughter are fine. I am an old woman now, 87 years old.
I am not really sick, just my hip broke, because of Osteoporosis, That means,that I am an Invalid now, walking only with my walker, but besides this I am fine, still smoking my cigarettes, not so many as before.
I am working for Beit Terezin from home and take the results once or twice in the week to the office, with my vehicle which has three wheels and gives me the freedom to move inside the kibbutz where ever I want to go.
It would be great if we could meet again, but let see first if my words reach you.I am wishing you and yours all the best and sending you my love.
Yours Alisah Schiller
私が、はじめてアリサさんに会ったのは、1990年11月、在日イスラエル大使館のラディアン書記官から<テレジンの家>を紹介されて、訪れたときでした。
キブツの中に建てられた資料館の事務室で、私を迎えてくれたのが、二人のアリサさんと、テレジンの『女の子の家』の世話をしていたヴィリー・グロアーさんでした。ヴィリーさんは、解放後に、残されていた子どもたちの絵を見つけて、プラハまで運んだ人でした。
その事務室には、部屋の三分の二ほどを占める大きな棚があり、何百冊ものファイルが並んでいました。その横の壁には、当時のヨーロッパの地図が貼ってありました。その後、私が、展覧会のパネルや、著書の中で使わせていただくことになった地図です。
右にソ連(当時)とヨーロッパを区切る国境線、左にベルギー、フランス、スイスが入る、その地図では、テレジンは、ちょうど真ん中あたりにあるのです。その『テレジン』に向けて、何本もの矢印が書かれ、別に、何本もの矢印が、『テレジン』から外へ向かって伸びていました。それぞれの矢印の先には、小さな数字が書かれています。他の国々から集められて『テレジン』へ送り込まれた人、『テレジン』から、アウシュヴィッツをはじめとする絶滅収容所へ送られていった人の数です。
それを見ると、テレジンへ送られた人は約15万人、うち3万3000人がテレジンで亡くなり、4万5000人がアウシュヴィッツへ送られたということです。その中に、あの絵を描いた子どもたち1万5000人が入っているということなのです。
私がそこにいた数時間の間にも、二人の訪問者がありました。アリサさんが話を聞き、ファイルを何冊か抜き出して渡しました。訪問者は、隅の椅子に座って、長い間、ファイルのページを繰り、読み、メモを取り、小声で話し合っていました。私と同世代のように見える人たちでした。
両親が、祖父母が、テレジンにいたのでしょうか。それとも、幼かった彼らが…。あるいは、彼らは誰かに匿われて生きのび、両親の行方を捜しているのか…。
「ホロコーストの犠牲になった人の、正確な人数はわかりません。これからも分かることはないでしょう」と、アリサさんは言いました。
「ナチスの『ユダヤ人絶滅作戦』の資料の中に、当時、ヨーロッパ全域に住むユダヤ人の数は1100万人と明記されています。それが、1945年に戦争が終わったのち、生き残っていたのは500万人ほどだった。その計算によれば、600万人が犠牲になったということになります」
アリサさんが、テレジンへ送られたのは18歳の時でした。
彼女は、一冊のファイルを取りだし、そこにあった3枚のカルテを見せてくれました。
茶色いしみのある紙。ナチスが作っていたもので、その証拠のように、チェコ人の名前の男女の格の変化に訂正がありました。
Frauska Ing.Bedrich 1900年10月12日生まれ
Fraukova Emilie 1903年11月28日生まれ
Frauska Josef 1934年6月11日生まれ
1941年12月14日、テレジンへ送られ、1944年10月19日 Osvetimへ、2回目のtransport (移送)とあります。アリサさんのお父さんとお母さん、そして弟のヨセフ君、まだ10歳と4か月。行先は、私がはじめてテレジンの子どもたちの絵と出会った時に見た言葉(私は、その数日前に、そこにいたのですが)ポーランド語でオシヴィエンティム……アウシュヴィッツです。
アリサさんは、たった一人生き残りました。
そして、解放後、イスラエルへ渡り、テレジンの生き残りの仲間たちが集まって、石ころだらけの原野を耕し、種をまき、水を引き、何年もかかって、自分たちの住むキブツを作り上げ、そこに博物館を作ったのです。
「テレジンで絵を描いていた子どもに会いたいと思っているのですが…」
当時、やっと手に入ったリストをもとに手紙を書いて送ったけれど、なかなか「会って話をします」という返事が受け取れずにいた私に、アリサさんとヴィリーさんは、一人の女性の名前を教えてくれました。
「ディタ・クラウスは、この近くに住んでいるよ」
私が大切に持ち歩いているリストには、その名前はありませんでした。
「私に会いたいという日本人は?」
翌朝、ホテルのフロントから来客を伝えられて、ロビーに降りて行った私に、美しい女性がにこやかに話しかけてきました。それが、ディタさんだったのです。
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