テレジンから生きて帰った子どもたち、ヘルガさんやラーヤさんの話を書いてきました。同じ子どもだったディタさん、バコンさん、子どもたちの絵を見つけてプラハまで運んだヴィリーさん、イスラエルのキブツ<ギヴァット・ハイム>で、<Beit Theresienstadt>(テレジンの家)という資料館を作ったアリサさん……これまでにお会いした方たちのことを連載するつもりなのですが、今日は一つ、番外編を。
9月後半から4週間、埼玉県東松山市にある<原爆の図 丸木美術館>で、ミエチスワフ・コシチェルニャック展を開催する予定です。開催中に講演会も予定していますが、何よりも、丸木美術館に一人でも多くの方に来ていただきたいのです。そのために会期も長くしていただきました。コシチェルニャック展、チラシができたらまたお知らせしますが、とりあえず予告編です。
Miesczyslow Koscielniak……名前を聞いても、ご存じない方のほうが多いだろうと思います。
アウシュヴィッツに収容されていた当時、ナチスの監視の目を逃れて、「殺人工場」とも呼ばれた収容所の実情を描き続けた画家。解放後、現地に<ポーランド国立博物館>が作られたとき、その初代館長をつとめ、現代絵画で高い評価を受けるようになってからも、アウシュヴィッツを描き続けた画家です。
私は、彼の作品を19点所有しています。
そのきっかけは、1995年、アウシュヴィッツ開放50周年記念事業として、ほるぷ出版が企画した『写真記録アウシュヴィッツ』(全6巻)の企画・構成・編集を依頼されたことに始まります。
1991年から私は、『テレジン収容所の幼い画家たち展』を全国展開させていました。この初期の展覧会は、アウシュヴィッツのガス室に消えた1万5000人の子どもたちが残した絵を展示するだけでなく、あの戦争という狂気の嵐が世界中に吹き荒れていた時代に、テレジンという、日本ではまったく知られていなかった収容所で、子どもたちの絵の教室が開かれていたという事実を伝えるものでした。
それまで特別にホロコーストの歴史を学んでいたわけでもない私は、あの時代のこと、ナチスの人種差別政策のこと、人間の尊厳を根こそぎ奪おうというさまざまな思想や手段のこと、そして、そんな地獄の中ででも、人間らしく生きようと努力した人、命がけで他人を助けようとした人など、多くの本を読み、映画を見、話を聞き、必死で学びました。『テレジン展』を開催する中で、生き残った方たちと出会い、話を聞くこともできました。
・・・・・・そんな実績を認めてくださった、この大事業の企画は、私にとっては本当に大きな仕事でした。
そのころまでに、膨大な資料を見てきた私には気になることがありました。
それは、ほとんどすべての写真が、加害者であるナチスの手のよって撮られたものだということでした。
それを証明するように、ウィーンの街角で、ワルシャワの道端で、暴力をふるわれ、倒れ、怯えているユダヤ人を撮ろうと、笑いながらカメラを向けているドイツ兵の写真がありました。収容所の中で、壁の前に裸の男たちを並べ銃を向けているドイツ兵も、丸太のように積み重ねられた死体の前で笑顔で並ぶドイツ兵も、首からカメラをさげていました。
……それを見なくても、当時の写真はすべて、加害者のドイツが撮ったものであることは明らかなのです。
「ユダヤ人は、ラジオ、自転車、カメラを持っていてはいけない。すべて供出すること」政権を握ったナチスは、早い時期からそんな布告を出していました。
・・・・・世界制覇を目標としていたナチスは、その野望が実現すると信じ、その暁には、「われわれは、このようにして邪魔な存在を殲滅し、素晴らしい世界を築き上げたのだ」と公表するために、積極的に写真や映画を撮っていた・・・・・・と書いた本がありました。
(画像)ヤン・コムスキーの描いたアウシュヴィッツの絵
「収容者を殺した後、死体の前に並んで自慢げに記念撮影する光景はよく見ました」と、コムスキーは、手紙に書いていた。
そうした意図の下に撮られた写真を使って本を作ったら、それは、加害者の目線で作った本にならないだろうか。いくら解説で説明しても、写真は「ナチスの手柄話」になってしまうのではないか。いろいろ考えました。
そんなときに、収容所にいた人たちがこっそりと描き、地下組織などを使って外部に流した絵、開放されたすぐ後に必死で描いた絵があることを知りました。ポーランドで出版された本に、数十枚の絵が載っていたのです。
それらの絵は、自分たちの生がいつまで続くかさえ分からないなかで、ただただ今、自分の周りで起こっているこの事実を誰かに知ってもらいたい、そのために描き残しておこうとしたものです。
果たして描いた方たちが生き残っていらっしゃるかどうか……
私は、ポーランドの友人に調査を依頼しました。
解放時に生存していた6人の方の名前が分かり、それぞれの方に、お手紙で、絵の掲載許可をいただきたいとお願いしました。
Wincenty Gauron、Jerry Potrebowski、Wladyslaw Siwek, Wladzimierz Siwierski 4人の方は、ご家族から「許可」というよりは、翻訳してくれたノヴィツカさんの言葉によれば「使っていただけるのは嬉しい」という返事が来ました。でも、もう、ご本人は亡くなっていらっしゃるとのことでした。
Jan Baras-Komski さんからは、長いお手紙と、今も描き続けているアウシュヴィッツの絵の写真が届きました。私は、その後、何回かの文通をかさね、96年には、アメリカ、アーリントンに住むコムスキーさんをお訪ねしました。
彼との出会いも、またいつか書こうと思っています。
(画像)『鉄条網の向こう側の子どもたち』
戦後、解放されてから描いたもの。アウシュヴィッツでは、労働力にならない子どもや老人は、到着するとそのままガス室へ送られた。子どもだという事実が、生存の理由にはならなかったのである。唯一、生きることを許されたのは、医師から、人体実験用に選ばれた子どもたちだった。
コシチェルニャックさんからも、何枚かの絵の写真が届きました。同封のお手紙には「日本で、このような企画が実現することは嬉しい」とありました。
私もお会いすることを楽しみにしていると伝えていたのですが、その後、企画会議・編集会議などを重ね、資料収集のためにアメリカ、ポーランド、ドイツ、オーストリア、チェコ、イスラエルなどを訪ねまわっていた間に、亡くなられ、結局、お会いする機会はなくなってしまったのです。
95年4月、予定通り、アウシュヴィッツ解放からちょうど50年目に『写真記録 アウシュヴィッツ』は出版され、絵を掲載させていただいた方々には本を贈りました。
その1年後、思いがけず、ポーランドから手紙が来ました。ウルシュラ・コシチェルニャック、「夫の生前から、個人美術館を作ることを夢見ていたが、なかなか実現は難しい。夫亡き後、子どももいない私には絵を保管、維持することができなくなりつつある。絵を譲りたい」というのでした。
ポーランドにとっては貴重な遺産のはず、それを日本で私が所有してしまっていいのか……ノヴィツカさんを通して何度か手紙のやり取りがあり、結局、私は、19点の絵を譲り受けることになったのです。
素晴らしい絵でした。
アウシュヴィッツで描かれた『コンサート』シリーズなどの銅版画、戦後に描かれた水彩による『コルベ神父』シリーズ、1943年、解放されたエーベンゼー収容所で、アメリカ軍のアイゼンハウアー元帥とパットン大佐をスケッチした貴重なものもあります。
私は、すぐに額装して、銀座教会などで展覧会を開き、画集を出版しました。展覧会も画集も、コルベ神父の生き方、彼との約束を生涯にわたって守り通したコシチェルニャックの生き方を伝えたくて『地獄の中の愛』と題しました。
その後、ウルシュラ夫人からは、コシチェルニャックさんが吹き込んだテープや、夫人を描いた絵などが送られてきましたが、数年前から連絡が途絶えています。
(画像)『ウルシュラ像』
ウルシュラ夫人から送ってきた写真。「自由になって間もなく、私たちは出会い、恋に落ちました。そのころに彼が描いてくれた私の肖像画です」という手紙がついていた。
『コシチェルニャックの生涯』
1912年、ポーランド生まれ。クラクフの美術アカデミーを卒業後も絵画の制作に励んでいたが、39年、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻すると、多くのポーランドの若者と同様、国防軍に徴兵された。戦闘の中で負傷し郷里に戻ると、反ナチスのレジスタンス運動に身を投じた。
41年3月、ゲシュタポに捕まり、取調べの中で、以前に描いていた、ドイツ兵がポーランド人を射殺する場面などの絵が見つかり、開設されたばかりのアウシュヴィッツへ送られた。29歳。到着と同時に彫られた刺青の番号は1526番。
ドイツ兵やカポに殴られ蹴られながら、激しい労働に従事していたが、偶然にSS幹部に絵の才能を認められ、収容所内の美術工房に移された。仕事は「シラミを退治せよ」とか「手を洗え」などというポスターを描くことだったが、彼の実力が有名になり、SS幹部たちが肖像画や、自室に飾る花の絵などを描いてくれと頼みにくるようになった。
だが、命じられた絵を描くことがいやになり、今、この収容所の実態を描かねば……、このドイツ兵の暴虐を知らせねば……という思いが強くなり、監視の目を盗んで真実を描くようになった。それらの絵は、仲間たちの命がけの協力で、外部の地下組織に届けられた。
そのころ、同じ収容棟にいたマキシミリアノ・コルベ神父と親しく話しをするようになったが、41年、コルベ神父は、罰せられる他の収容者の身代わりを申し出、餓死室で、47歳の生涯を終えた。
「収容者の脱走があり、激怒したドイツ兵は、十人を選んで処罰すると言った。
一人の男が指差された。“助けてください、私には子どもがいる”と泣き出す人。
そのとき、私のすぐ横にいたコルベ神父が、“私が代わりに”と申し出た。私は足が震えて前に出ることができなかったのに……
そして、コルベ神父は地下の餓死室へ入れられ、他の仲間の死をすべて贈った後に、ドイツ兵に注射をされて死んだ。
数日前に、コルベ神父は、私に“あなたは絵の才能があるのだから、この事実を描かなければいけない、絵で伝えるという大切な役割があるのだ”と言っていた。それを思い出し、私は、命がけで事実を伝えますと、彼に約束した」
コシチェルニャックは、生涯、その約束を果たす努力を続けた。
45年、敗色の濃くなったドイツ軍は、収容所に残っていた人々を集めて、いわゆる「死の行進」に送り出した。収容所生活よりももっと過酷だった行進。長い旅路の中で、多くの人が倒れ、息絶えた。
ようやくたどり着いたオーストリアのエーベンゼー収容所には、食料はほとんどなかったという。5月、アメリカ軍により解放。
生き残ったコシチェルニャックは、ワルシャワに帰り、哲学を学びながら、コルベ神父との約束どおり、アウシュヴィッツの地獄を描き続けた。93年、スプースクで死去。500枚以上の絵が残された。
<写真説明 ※画像をクリックすると拡大でご覧いただけます>
(1)『コルベ神父』
収容所の中で美術工房にいたコシチェルニャックは、紙や絵の具などは手に入れることができたが、版画(板に彫った木版、拾ったブリキ板などに釘で彫った銅板などさまざまな画材、技法を使ったもの)が多い。外部に持ち出すことができれば、何枚も刷って、多くの人に見てもらえることを考えたらしい。
1941という文字が見える。僧服を着ていることから見ても、コルベ神父の生存を伝えたくての作品かと思われる。
(2)『コンサート』
アウシュヴィッツでは、音楽家たちのオーケストラのことは良く知られれている。その指揮者だったコビチンスキーは、コシチェルニャックの親しい友人だった。このような絵は、仮に第三者の目にふれても、“収容所は、音楽を楽しめるような場所”と思ってもらえるので、ドイツ軍からは歓迎されていた。それを利用して、コンサートの場面を描きながら、外にいるレジスタンスの仲間に、収容されている仲間の無事を伝える連絡方法としていた。女性のすぐ後ろ、ヴァイオリンを弾いているのはコシチェルニャック。その後ろ、コントラバスはコビチンスキー……美しい絵だとドイツ軍は褒めたが、実際に、この二人の無事を伝えたものであり、実際には楽器は演奏できなかったという。
(3)『コルベ神父』
戦後に描かれたシリーズの中の一枚
『コルベ神父』
1894年、当時ソ連統治下だったポーランドのジェンスカ・ヴォラで生まれた。信心深い母親に育てられたが、13歳のとき、カトリックの司祭になる決心をし、修道会に入った。
18歳でローマに留学、哲学・神学を学び、仲間とともに、聖母マリアに自己をささげ、悪と闘うことを目的とした「聖母の騎士団」を結成。
その後、ポーランドに帰ったが、病に倒れ、2年間の闘病生活を送った。退院後は雑誌『聖母の騎士』を創刊。ニエポカラノフ修道院の院長として活躍。
1930年、アジアでの宣教を夢見て、日本の長崎港に到着。1ヶ月先には、日本語で『聖母の騎士』を出版、皆を驚かせた。
1930年、管区会議出席のために離日、それが、日本との別れとなった。
41年、ナチスに捕らえられ、アウシュヴィッツへ送られ、8月14日、餓死室で死んだ。
2013年6月20日 野村 路子