第8回 ラーヤさんのお母さんとの別れ

1944年秋、国際赤十字の視察も、プロパガンダ映画の撮影も、ドイツ側にしてみればまさに“大成功のうちに”終わり、そのためにだけ特別に残されていたけれど、もう不要になった“嘘の大芝居の出演者たち”や、その事情をよく知る人たちを『東』へ送り出し、テレジンは、がら空きの状態になっていた。

あの日、街のあちらこちらを彩っていた花壇も、広場に作られた音楽ホールも、公園のブランコや砂場も、すべてとりこわされた。それぞれの部屋でも、窓につけられたカーテンや、ベッドに置かれた柔らかな毛布がなくなり、人が少なくなった分、一層、荒れ果てた感じになっていた。一時は、4人も5人もが“イワシの缶詰のように”重なり合って寝ていた三段ベッドにも、空きが目立つようになっていた。

“連合軍がすぐそこまで来ている”という噂がどこからか伝わってくるかと思うと、逆に“ナチス・ドイツは総力を結集して反撃している”という情報も入ってきた。

「子ども心にも、“最後のとき”が近づいて来ているのは分かりました」と、ラーヤさんは、また話をはじめました。

「私たち早い時期に来た人が、仕事のリーダーになっていました。そのころの私は、最年長になっていたから、畑仕事の責任者だったのです。

11月でしたね、突然、お母さんが『女の子の家』に来たのです。びっくりしました。もう何年も会っていなかったから、本当に嬉しかった。お母さん、元気でいたのねって飛びつきましたよ。何から話そうって思ったら、お母さんが、お別れに来たのだって言ったのです。明日、『東』へ行くことになったって。ドイツ兵の監視を逃れてきたのでしょうね、“ラーヤ、元気でね”と言うと急いで帰ってしまったのです。

仕事がつらくても、まわりの友だちが次々といなくなっても、私がなんとかがんばって来たのは、お父さんやお母さんに会いたい、またみんなで一緒に暮らしたいという、その願いがあったからです。きっとまた、そんな日が来る……フリードル先生に言われて、私も信じていました。それなのに、お母さんが行ってしまう、一人で残されたら、もうがんばれないって思いました。

それで、勇気を出して、ドイツ軍の事務所へ行ったのです。お母さんと一緒に行かせてくださいって頼みました。でも、お前はリーダーだから残れって言うのですよ。“お願いです。お母さんと一緒に行かせてください”と繰り返し頼みましたよ。

そうしたら、親衛隊員が“そんなに行きたいなら、勝手に行け!”って怒鳴ったのです。

私は、翌朝、列車の発着所へ行きました。真っ黒な箱のような貨物列車が何十輌も連なっていました。「お母さん お母さん」って叫びながら歩きました。そうしたら、ある箱の中から、お母さんが顔を出したのです。私も一緒に行くのって叫びました。お母さんが奥から一生懸命腕を伸ばしてくれたので、私も必死で一段目のタラップに足をかけ、手を伸ばしました。お母さんの手とつながって、もう一段上がろうとしたとき、親衛隊員が、“おい、お前、何している”って怒鳴ったのです。畑仕事のとき見回りをしている人でした。“お前はまだ移送者リストに入っていない、降りろ!”と、私の腕をつかんだのです。

私は、片方の手をお母さんとつなぎ、もう片方の手を親衛隊員に引っ張られました。私は必死で、お母さーんって叫び、行かせてって叫びましたよ。

でも、下からの力のほうが強く、私は線路の脇に落っこちてしまったのです。

貨物列車の扉が閉められ、大きな鉄の錠がかけられました……」

ラーヤさんは、一気に話し終わると、静かに顔を上げました。どこか遠いところを見ているようでした。

「大きな汽笛の音がして、列車は走り出しました。私、今でも汽笛の音が大嫌いですよ」

クリスマス・ツリーと少女
クリスマス・ツリーと少女

「さあ、ラーヤの話が終わったらお茶にしましょうか。クリスマス用に焼いたクッキーがあるのよ」

隣の部屋で、お孫さんとクリスマス・ツリーの飾り付けをしていたヘルガさんが声をかけてくれました。明日はクリスマス・イブという日でした。

クッキーを食べ、お茶を飲みながら、私は、クリスマスを祝うのか?と聞きました。

私が持っている本には、クリスマス・ツリーの絵が載っていました。数ヶ月前、私が日本ではじめて『テレジン収容所の幼い画家たち展』を開催するという新聞記事が出たとき、私は、記者のインタビューに答えて「さまざまな絵があります。学校の校舎の前に立つ子ども、遊園地、プール、ヨット、ボール投げをしている子ども、市場のおばさん、クリスマス・ツリーなど、普通の子どもが描く普通の絵です」と言ったのですが、その記事を読んだ人から一通の葉書が新聞社に届いたのです。

「ユダヤ人はクリスマスを祝うことはない。そんなことも知らないで、ユダヤ人の子どもたちの絵の展覧会をするのか」というものでした。

正直な話、私は、そのころユダヤ教の戒律や、ユダヤ人の生活などほとんど知識はありませんでした。ただただ、あのプラハの小さな建物の中で出会った子どもたちの絵が心から離れず、しかもやっと知りえたテレジン収容所での絵の教室、フリードル・ディッカーという画家の存在……子どもたちに笑顔を取り戻させようと命がけで立ち上がった人がいたと言う事実、「お前、そこにいたら、できたか」と、突きつけられた鋭い問いに答えるには、自分のできることをやらなければならないという思いだけだったのです。

だから、実際にクリスマス・ツリーの絵があった、私は見たとしか言いようがなかったのです。

プラハ旧市街に立てられた大きなクリスマス・ツリーとティーン教会
プラハ旧市街に立てられた大きなクリスマス・ツリーとティーン教会

「私の家でも、私が子どものころから、クリスマスを祝っていましたよ。

実はね、私、ナチスが入ってきて、ユダヤ人を規定するようになるまで、自分がユダヤ人なのだって知らなかったような気がします。

とてもオープンな雰囲気の家庭だったし、隣近所のキリスト教徒の家庭と親しくつき合って、何も違うものはなかったように思っています。もう何代も前からプラハに住んで、チェコ人と同化して暮らしていたのですもの。もちろん、キリスト教に改宗してはいませんよ。でも、友だちと一緒にクリスマスのお祝いをすることに、何も不自然は感じていなかったわ。

今は、うちでも、子どもや孫とツリーを飾り、ケーキを食べますよ」とラーヤさんは言いました。

お母さんたちからの毛糸で描いた花
お母さんたちからの毛糸で描いた花

お茶をいただきながら、私は、フリードルの絵の教室についてまた少し質問をしました。

「あるときね、先生が“今日はみんなにすばらしいプレゼントがあるわよ”と言って入ってきたのです。手に毛糸の束を持っていました。赤やピンクやブルー、いろいろな色がありました。汚れてちょっと灰色になっているけど、白い毛糸だっただろうと思えるものもありましたよ。短い、そう、20センチくらいのものだったけれど、先生が“これはね、みんなのお母さんからよ”って差し出すと、みんなでわーって手を伸ばしました。

お母さんたちが、着ているセーターの袖や裾をほどいて集めてくれたというんですよ。みんなで交代で握って、頬にあてました。暖かいものが伝わってくるようで嬉しかったですね。私たちのこと覚えていてくれたんだって思うだけで嬉しくて……。

先生は、その日、誰かが持っていた刺繍針を一本持っていました。この毛糸で絵を描きましょうって、紙に刺繍したのです。先生は、クレヨンや絵の具で紙に描くだけでなく、いろいろな材料を使って、なにかを創り出すことを大事にしていました」

と、ラーヤさんは、自分の着ている紫のセーターの袖を引っ張りながら話してくれました。

フリードル・ディッカー

1898年にウィーンで生まれたフリードル・ディッカーは、幼いときから、絵を描いたり、粘土で形を作ったりするのが大好きだった。16歳で、ウィーンのグラフィックデザイン実験学校に入り、その後、美術工芸学校に入り、学費を稼ぐために、劇場の舞台美術や衣装のデザインをしていた。

さらに、ウィーン王立応用美術学校のテキスタイル・クラスに進み、独創的なデザインで教師たちに注目され、彼の勧めで、ドイツ、ワイマールに誕生したばかりのバウハウスに移って創作の幅を広げた。

フリードル・ディッカーについては、章をあらためて書くが、その美術経歴の中で、画家というより総合芸術家として高い評価を受けたことだけ、ここで紹介しておきたい。

彼女の遺した作品には、幼稚園の設計から、インテリア、家具や玩具、テキスタイルなど本当にさまざまなものがあるが、中でも、コラージュ作品が評判になったという。

「いろいろな素材を使って、想像力を生かして何かを創り上げる……その創作過程の中で、子どもたちは心を自由に遊ばせることができる。悲しく、つらい境遇の中で生きている子どもたちには、一枚の絵を描くより、貼り絵や切り絵、コラージュをやらせてあげたい」と、テレジンでフリードルは語っていたという。

絵の具やクレヨンもなくなり、他の材料も手に入らなくなったとき、同室の女性たちからの毛糸のプレゼントは、子どもたちはもちろん、フリードルにとっても嬉しいものだったであろう。

 

「私は、フリードルの絵の教室では描かなかったのですよ。さっき話したように、私は父に言われたことを守ろうと思ったから……。絵の教室が始まる前から、父からの手紙を受け取って、一人で、家から持ってきた画用紙に絵を描いていました。もちろん教室が始まったのも知っていたし、みんなが楽しそうに描いているのも知っていましたよ。楽しかったときを思い出して描いてみましょうと言っているのも聞いていました。でも、私は、父に言われたように、想像や空想の絵ではなく、実際に見たものを描こうと思ったのです。

フリードル先生が積極的に作らせた貼り絵作品
フリードル先生が積極的に作らせた貼り絵作品

戦争が終わってから、私は美術学校で学びました。そして、長い間、自分の作品を作りながら、学校で絵を教えていました。

大変な時でした。戦争が終わって自由になったかと思ったら、今度はいわゆる“鉄のカーテン”で閉ざされた社会主義になったのですから。そこでは、自由な発想で創作することは許されなかったのです。自分の創作はもちろん、子どもたちにも“あれをしなさい”“これは描きなさい”という教育をしなければならないの。

何とかして、子どもたちの心を開放してあげたいと思いましたよ。日常生活までは無理でも、せめて、好きなように絵を描かせてあげたいって。

そんなときに、あのテレジンで描いた絵を見たのですよ。あんな境遇の中にいたのに、みんな楽しそうな絵を描いていたのを見てびっくりしました。子どもたちの心を自由に解き放つ指導をしたフリードル・ディッカーという芸術家を尊敬しています。すばらしいことをした人ですよね」

ヘルガさんの話を、横に座ったラーヤさんは静かにうなずきながら聞いていました。

私がはじめてヘルガさんたちに出会ったのは、チェコスロヴァキアが、Velvet Revolution ビロード革命といわれる改革から一年しか過ぎていないころでした。でも、はじめて訪れた社会主義国だった時代と比べると、本当に大きな変化が見られました。

どの店のショーウインドウの中に品物がある、肉屋や八百屋に行列がない、軍人や警官の制服姿が減った、誰も「Change  money  please」と寄ってこない……旅行者の私にはどれも興味深い変化でしたが、でも、何よりも素晴らしいと思えたのは、街の人々の表情が明るくなったことだったのを、今もはっきりと覚えています。

「家では 何でも好きなものをかいたが、

学校では、かきなさい

といわれたものをかいた。

戦車をかいた。戦争をかいた。・・・・」

という言葉が書かれた絵本がある。冷戦下のチェコで育った絵本作家ピーター・シスの『THE  WALL 』(壁)という本を見たとき、私は、このヘルガさんの言葉を思い出し、フリードル・ディッカーのこを考え、テレジンの子どもたちの絵を思い出した。

クリスマス・ツリー
クリスマス・ツリー

私は、講演会などで、「真っ白な画用紙とたくさんの色のクレヨンや絵の具を自由に使って絵を描き、失敗したら新しい紙がもらえ、途中でやめて、また次の日に、その続きが描けることを、今、当たり前だと思っているでしょうが、それは、とても幸せなことだと知って欲しい」という話をするが、それに「好きなものを、好きなように描けることは幸せなのだと、付け加えなければならないなと思う。

 

 

 

2013年5月9日 野村 路子

 

<写真説明(上から順に) ※画像をクリックすると拡大でご覧いただけます> 
(1)クリスマス・ツリーと少女

ネリー・シルバノーヴァー/1931年12月21日 生まれ 1944年10月4日 

アウシュヴィッツへ楽しかったころを描いた絵なのだろうが、よく見ると、ツリーに飾られているのは、ほとんど食べ物ばかり。こんなものがあれば良いなと夢見て描いたのだろうか。
(2)プラハ旧市街に立てられた大きなクリスマス・ツリーとティーン教会

テレジンに送られる前、あの子どもたちも、家族と一緒に見たのであろう。
(3)フリードル先生が積極的に作らせた貼り絵作品

ルース・シャクテローヴァー/1930年8月24日 生まれ  1944年6月18日 アウシュヴィッツへ

(4)お母さんたちからの毛糸で描いた花

マリカ・フリードマノーヴァー/1932年8月6日 生まれ 1944年19月8日 アウシュヴィッツへ

(5)クリスマス・ツリー

エヴァ・ヴォルシュタイネロヴァー/1931年1月24日 生まれ 1944年10月23日 アウシュヴィッツへ

ラーヤさんやヘルガさんと同じように、当時、家庭でクリスマスを祝っていた子どもが多かったのだろう。ツリーを描いた絵が多い。