第7回 ラーヤさんの絵は何を…?

ラーヤさんが描いた絵
ラーヤさんが描いた絵

ラーヤさんに会うことは、私にとって大きな意味がありました。

そのころ、私はまだ、テレジンの子どもたちの絵を数十枚しか見ていませんでした。プラハのユダヤ博物館に展示してあったのは、わずか十数枚。改革前のプラハでやっと手に入れた、うすっぺらなパンフレットと、ビロード革命を経て急激に変わりつつあった、三回目か四回目のプラハ訪問で手に入れた『TEREZIN』という厚い写真集に載っていたものを合わせても数十枚だったのです。

その中で、強く印象に残ったのは、博物館にあった首吊りの場面を描いた絵と、本に載っていたラーヤさんの描いた絵だったのです。

そのときの私の印象を書くよりも、その絵を見ていただくほうが良いでしょう。どう思われますか?
その後、1991年から開かれた『テレジン収容所の幼い画家たち展』の会場に置いたノートや、アンケートを見ても、この絵について書いていた人がとても多かったのです……

「この絵を描いた子は、何か大きな恐怖を感じていたのでしょうか?」「逆立った髪の毛と、拡げた手の指が、何かを私たちに訴えているように思えます」。私が、はじめに感じたのと同じことでした。
明るい色で描いた遊園地や花や街の風景の絵の中で、この二枚の絵は、どちらもエンピツだけで描かれています。そして、首吊りの絵の紙は茶色くシミのある紙、ラーヤさんの絵はまわりがぎざぎざ、何かの紙を切ったもののようです。

私は、ラーヤさんにディタさんの写真を見せ、元気だった様子を伝えたあと、本題に入りました。とても緊張していました。
「私、あなたの絵を見ました。とても印象に残っています。あれは、何を描いたものなのですか?」 

ラーヤさんは答えません。さっきディタさんの話をしていた時は、あんなににこにこしていたのに、ふっと口をつぐんで視線をそらせました。……沈黙。
「テレジンに送られたのはいつですか?」 私は質問を変えました。
「私は、ヘルガよりも後です。42年になってからでした」
雪が降って、寒い日だったという。「マイナス20度くらいだったと思いますよ」
「集合場所のバラックはストーブもなくて、私たちはみんな、ありったけの洋服を重ねて着て、それでも寒くて、みんなくっついて座っていました。トイレは、外へ行かなければなりません。雪の中を歩いて行くのだけど、いつも、誰かが使っていて何人も並んで待っているのです。震えながらトイレの順番を待っている時に、私たち、もう今までのような幸せな時間は持てなのかも知れないって、子ども心にも、そんな気がしたのを覚えていますよ」

ラーヤさんは、はじめて黄色いダビデの星をつけて外出した日のことも話してくれました。そのころはもう、ユダヤ人は公園に入ってはいけない、プールやサッカー場に入ってはいけない、スケート・リンクも、映画館も、コンサート・ホールも、デパートも、以前はよく行っていた本屋さんも、食料品店も、洋服屋さんも……あらゆるところに『ユダヤ人 立入り禁止』『ユダヤ人は 入場を禁ず』という看板が出ていました。大切な自転車を取り上げ、ラジオ取り上げ、学校へ行くことも、列車やバスに乗ることも禁止されていたのです。
それでも、三輌つながった路面電車(トラム)のいちばん後の車両だけは「ユダヤ人用」になっていたのだそうです。

「お母さんは、この黄色い星をつけていないと恐ろしい目に合うって言ったのですが、私には、星をつけていると恐ろしい目に合うよう思えていました。近所の男の子が、友だちだと思っていた子どもたちにいじめられて、血だらけで帰ってきたのを見ていましたし、お父さんやお母さんの知り合いが、街で、石をぶつけられたとか、殴られたとかという話をしているのを聞いていましたからね。こわかったですよ。
腕をこういうふうに胸の前で組んで、一生懸命に星を隠そうとしていました。
トラムが来て乗り込んだら、おじいさんの車掌さんがにこにこして、“ああ、星のお姫様が来たね”って言ったのです。とても優しい笑顔で……ほっとしましたよ、そのときのことは本当にはっきり覚えています。今もよくトラムに乗りますが、ふっと、そのときのことを思い出します」

「テレジンの生活はどんな具合だったのでしょうか」と私は聞きました。
「人間って、何にでも慣れることができるのですね。寒さ、暑さ、飢え、渇き、労働の厳しさ、親と会えない淋しさ、ドイツ兵に怒鳴られたり、殴られたりする恐怖……何もかもはじめての経験だったけれど、子どもは、大人よりも順応性が強いのでしょうね、いつの間にか慣れてしまったわ。
そう、私たちのいた『女の子の家』の部屋には、水道の蛇口が二つ、トイレも二つしかなかったのよ、そこに、多かったときは30人以上、40人のときもあったかしら、大変なはずよね。しかも、終わりの頃は、水道もトイレもみんな壊れていたのだけど、そんなことにも、何とか慣れてしまうの。
私たち女の子は畑仕事をさせられていたのだけれど、それにも慣れましたよ。はじめは、シャベルも持ったことがなかったのに、上手に土を耕し、タネを蒔いたり、苗を植えたり、川の水を汲んできて水をやったり、みんな上手にできるようになりました。私はね、泥棒も上手になったのよ」

ラーヤさんは、両方の掌を大きく開いて見せてくれました。

「私の手は大きいでしょう、これは畑仕事をやっていたせいね。この手で泥棒もしたのよ。
私たちの畑では、ジャガイモやトマトを作っていました。一生懸命に働くから……ちょっとでも手を休めたら、怠けた!って、ドイツ兵に殴られるから、みんな一生懸命に働かないわけには行かなかったのです。だから、大きなジャガイモやトマトができましたよ。最初は、とても嬉しかったわ、でも、それはみんなドイツ兵のものなの、私たちが食べるものではないのです。
私たちの夕食に配られるのは、小さくて腐りかけのジャガイモだけ、トマトなんか一度も配給にならなかったわ。収穫をしていると食べたくてね、泥棒をするしかないのです。ドイツ兵に見つかったら大変です。畑から帰るときにジャガイモを持っているのが見つかって、殺された子もいました。でも、食べたい、今、一つ食べたら、しばらくは元気でいられるって思いますよ。だから、勇気を出して、こっそりと、ドイツ兵に見えないように、トマトにかぶりつくのです。美味しかったですよ。あれで、生きのびたのかもしれません。
戦争が終わって、普通の生活に戻ってからでも、八百屋さんの店先に並んでいるトマトやジャガイモを見ると、不思議な気持になりましたよ、こんなにたくさんあるのに、なぜ誰も盗まないのだろうって……」

ラーヤさんは、静かな口調で、テレジンでの生活を話してくださいました。
「『女の子の家』で教室が開かれるようになったのは突然でした。ずっと後になって、大人の人たちが皆で協力してやっと許可になったのだと知りましたが、そのときは、何もわからないまま、ある日、大人の人が来て、お勉強しましょうって言われて、最初は歌を歌ったように覚えています。しばらくして、絵を描いたり、詩や作文を書いたり、算数の勉強もしましたよ。
もちろん『男の子の家』でも開かれたわけだし、許可になったのは、週に二回くらいでしょう、時間や先生の都合もあって、時間割なんかない、いつ、何を勉強できるかわからないけど、でも、教室が開かれる日は本当に楽しみでした。
お勉強といっても、教科書なんかありません。ノートや鉛筆ですか? 私は、テレジンに来るときに、それまで大切にしまっておいたものを持ってきたのがあったけど、持っていない子もたくさんいましたよ。先生が持ってきてくれた紙切れに、小さな鉛筆で書きました。紙も鉛筆も貴重品でした。ノートだって、使ってしまったらもう二度と手に入らないのは分かっていましたから、隅から隅まで小さな字で、びっしり書きました。消しゴムを持っている子がいてね、それを借りて、一度書いた字を消しました。

勉強は楽しかった、先生の話を必死で聞いて、本当に一生懸命勉強したのよ。一日働いた後だから疲れきっているのだけど、それでも、教室は待ち遠しかったくらいです。
今、私には孫がいるのだけど、娘が、“勉強をしない”って困っているから、私は言うのですよ。“子どもにやる気を起こさせるには禁止するのが一番よ”って」

「そうね、私たちの部屋でいちばん多く開かれたのは絵の教室でしたし、いちばん皆が好きだったのも絵の教室だったと思います。皆フリードル先生が大好きでしたよ。
小柄で、快活な人。目が輝いていて、いつも笑顔で接してくれました。チェコ語があまり上手でなくて、私が、ドイツ語で通訳をしました、そう、私はドイツ語がよくできたの。

先生は花が好きでした。テレジンでは花が咲くことなんかなかったから、私たち、花のことなんか忘れていたのだけど、先生が花の絵を描いてきて、“これがポピー、これがバラ、これが水仙、良いにおいがするわよ、さあ、目をつぶって、きれいな花を思い出してごらんなさい”って言うんですよ。そうしたら、本当に良いにおいがするような気がして、皆で大喜びしましたよ」

エリカ・タウシゴヴァー/1934年10月28日生まれ/1944年10月15日 アウシュヴィッツへ
エリカ・タウシゴヴァー/1934年10月28日生まれ/1944年10月15日 アウシュヴィッツへ

「絵の教室は、どうでした?」と、私は聞きました。
「そこで、あなたが描いた絵は?」 
私は、どうしても、あの絵のことが知りたくて、ラーヤさんの絵の載っている本を出して質問しました。
「この絵のことはよく覚えていますよ」 
ラーヤさんが指さしたのは、彼女の絵ではなく、鉛筆でハートを描いた絵でした。
「これを描いたのはエリカ、いちばん小さい子でした。
テレジンでは、10歳から15歳の子が、『子どもの家』に入れられて、まだ10歳になっていない子はお母さんと一緒の建物にいられたのだけど、エリカは、お母さんがいなくて、まだ9歳だったのに『女の子の家』にいたのです。
この絵はね、フリードル先生へのお誕生日のプレゼントなのです。Fir frau Brandajsって書いてあるでしょう」

幼いエリカは、先生に花を上げたかった、でも、テレジンでは、一輪の花を見つけることもできない……せめて赤かピンクで花を描きたい、でも、もう絵の具もクレヨンもなかったのだろう。粗末な紙に、鉛筆で小さな花を描いたエリカ。
その本によれば、彼女は、1944年10月6日、間もなく10歳の誕生日が来るというのに、貨物列車に乗せられて『東』へ運ばれたのだ。
その列車に、彼女の大好きなフリードル先生も乗ったという事実は、少しだけ私の心を慰めてくれた。

テレジンから『東』 つまりアウシュヴィッツへ行く貨物列車は、もともと家畜運搬用のもの、馬なら8頭を乗せるものだったという。戦時下のドイツでは、兵士を運ぶ際、40人を乗せるのが基準だったが、ユダヤ人の輸送のときは130人、時には、170人も押し込めたといわれている。
貨物列車は、外から重い木の扉を閉めて、閂をかけてしまえば、木製の箱だ。上のほうに小さな窓(そこにも、鉄格子のかわりに数本の有刺鉄線が張られていた)があるだけで、中は暗く、暑く、息苦しい。幼い子どもは、大人の間に挟まれて息もできなかったという。どこへ行くのか、何日かかるのか……列車は、走っては止まり、また走り、時には戻り、真っ暗な草原の中で止まったきり動かなかった。中で、人々が飢えや酸欠から息絶えても、ドイツにとっては何も困ることではない、むしろ、手がかからず始末ができたと喜ばしかったのだ。どうせ、到着したアウシュヴィッツで、ガス室へ運ぶ“もの”なのだから。
そんな列車の中で、フリードル先生は、エリカたち13人の子どもに何を語っていたのだろうか。どんな言葉で、励ましていたのだろうか。
それを聞きたくても、語ってくれる人はいない……その日に運ばれた人の中に、生存者は一人もいないのだ。

ラーヤさんは、なかなか私の質問に答えようとはしてくれませんでした。

 

 201353日 野村 路子

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