第2回で、ガイスラーさんのことを書き始めたらついつい書きたいことがたくさんあって止められなくなってしまいました。思い出がいっぱいある人なのです。本題に戻るのに数日も間があいたことお詫びします。
へルガさんとの出会いや、彼女の話などは、今までにも『15000人のアンネ・フランク』や『子どもたちのアウシュヴィッツ』などの著書の中で書いていますが、あらためて、ここで書いて行こうと思います。
(今後の続きも、同じように、前に書いた話もふくめ、記憶や記録とともに、その後の時の流れの中で変わったこと、感じたこと、新しく知ったことなどを書いて行きます。)
ヘルガさんのお宅は、プラハの街の中心部から少し離れた住宅街、かなり古いアパートの4階でした。ドアを開けたのは、小太りの中年女性、お孫さんとクリスマス・ツリーの飾り付けをしていたところでした。すすめられてソファーに座ると、目の前の壁に大きな一枚の絵がありました。痩せた女性が、同じように痩せた幼い子どもの手を引いて歩いている油絵です。二人の首には、数字の番号を書いた札がかけられて、大きな目だけが、その悲しげな顔の中で黒く印象的です。あらっ、どこかで見たことがある、と思いました。「私の絵です」とヘルガさんは言いました。「もしかしたら、博物館にあった絵も…?」と早速、私はガイスラーさんに質問してもらいました。「そうよ、あなたは、あの絵を見たの? あの絵も、この絵も、数年前に描いたものですよ」と彼女は英語で私に答えてくれました。それは、1989年、はじめて偶然に入った、ユダヤ人墓地のとなりにある小さな建物(当時のユダヤ博物館)にあった絵です。大きな絵で、有刺鉄線と履きふるして半ばつぶれた靴の山、そして、隅に少女の顔がありました。その目が、今見ている絵と同じ、黒く大きな目だったのです。
ヘルガさんが、学校の美術の教師をしていたこと、画家として高い評価を受けていることは、在日チェコ大使館をとおして、ユダヤ博物館からいただいた資料で知っていました。
「今日、あなたがテレジンのことを聞きにきたのは、なにか巡り合わせね」と彼女は言いました。「49年前、1941年の今日、12月23日に、私たち家族は呼び出されたのよ、そう、この家から……。
私は、1929年に、この家で生まれました。ナチス・ドイツの軍隊が入ってきたときは、10歳でした。小学校に入ったころは、平和な良い時代でしたよ。プラハは、ヨーロッパの中でも、文化的な都会でした。パリやウィーンの上流家庭の人たちが、洋服の注文や買い物にプラハへ来ていたのです。もちろん観光客もたくさん来ましたよ。幸いなことに、あの戦争のころ、街はドイツ軍に占領されていたけれど、空襲はなかったのよ、たった一回だけ、旧市街の市庁舎の建物に爆弾が落ちたって聞いているけれど、ワルシャワやベルリンのように街が破壊されることがなかったから、あのころ美しかった風景は、今も変わらずに、あなたが見ることができるの。きれいな街だと思うでしょう?
ドイツ軍が入ってきて、私たちの生活は一変しました。私たち、学校へも行かれなくなったのです。ユダヤ人は電車やバスに乗ってはいけないの。だから、旅行にはもちろん、よその町にも行かれなくなりました。ユダヤ人は自転車やラジオを持っていてはいけないって、とり上げられました。会社の経営者は、会社をとり上げられ、医者や弁護士や学者は仕事をしてはいけないって、そう、商店だって、ユダヤ人以外の人にはものを売ってはいけないって、店の前にドイツ兵が立って見張りをしていました。
私は、まだ子どもだったから、何がなんだか分からなかったけれど、公園や遊園地で遊ぶことも、友だちの家へ行くこともできなくなって、家の中でひっそり暮らしていました。お父さんは仕事に行かないし、お母さんは買い物に行かないから、みんなで家にいるのだけれど、以前のように音楽を聞いたり、ゲームをしたり、楽しく笑っておしゃべりをするようなことはなくなっていました。二人が顔を見合わせてはため息をついていましたよ。そのころから、
私は日記をつけ始めました。その日記帳は、テレジンへ送られるときにも持って行って、あそこでもずっと書いていました。」
ヘルガさん家族は、12月23日に呼び出され、数日間を集合場所のバラックで過ごした後、テレジンへ送られ、両親と離されて<女の子の家>に入れられました。
テレジンへ送られるときに別れてから、父親には一度も会っていません。
彼女は、父親が大好きでした。幼い頃から絵を描くことが好きだったヘルガさんにとって、父親はいつも最高の“先生”でした。子どもに対して「上手に描けたね」と通りいっぺんの褒め言葉を言うのではなく、ここが良い、ここはもっと良く見て、などときちんと批評をするのです、そして、大きな本箱から古い画集を出してきて、有名な画家の絵を見せてくれるのでした。
<女の子の家>に入って間もなく、近所の顔見知りのおじさんが、ヘルガさんのいる部屋へきました。ストーブのない部屋は寒くて、子どもたちはみんな、三段ベッドにうずくまって藁の入ったふとんにくるまっていました。
おじさんはヘルガさんを見つけると、「お父さんは元気だよ、お父さんに渡してあげるから急いで手紙を書きなさい」と言いました。嬉しくなったヘルガさんは、大切に持ってきた画用紙を出し、そこに雪だるまを作っている女の子の絵を描きました。
家で過ごした最後の日、プラハは雪だったのです。外に出て遊べない彼女のために、お父さんは、バケツにいっぱいの雪を持ってきてくれました。お母さんは、もう残り少なくなった貴重な石炭を二かけくれました、そして、親子三人で雪だるまを作ったのです。
それは、彼女にとって父親と過ごした楽しかった思い出の場面でした。
何日も過ぎて、もう返事は来ないのかと諦めかけていたころに、またおじさんが来ました。(1941年、テレジンの街に住む人をすべて移住させ、街全体を収容所にして、ユダヤ人が送り込まれるようになった、まだ初めのころは、部屋の水道の蛇口がこわれたとか、電球が切れたとかいうときに、おとなの収容者の中から選ばれた技術者たちが、その修理に回っていたのです)
おじさんは、靴の底から紙切れを出してくれました。皺になった紙切れには、懐かしい父親の字で「自分の目で見たものを描きなさい」と書いてありました。
「それから、私は、収容所の中で見たものを描きました。お父さんの言葉はいつも正しいと思っていましたから、きちんと描いて、お父さんに見せようと思ったのです。お父さんに褒めてもらえるよう、目で見たものをそのままに描きました、日記もですよ。」 画用紙が足らなくなると思った彼女は、きちんと四等分に切ってハガキ大の紙を作りました。絵の具も少しずつ薄く塗るようにしました。日記帳は、小さな文字でびっしりと余白を残さず書くことにしました。
・・・そうして、1945年、戦争が終わって、ヘルガさんが収容所から解放されたとき、100枚の絵と三冊の日記帳が残ったのです。
「収容所の実体を描いたものはほとんどないので、私の絵は、貴重な資料になっています。ワシントンのホロコースト博物館ができたとき、そこに入れたいと言われました。イスラエルのヤド・ヴァシェムからも、ぜひ展示させてくれと言われていますよ。でも、私は手放したくないのです。お父さんに見せるために描いたのですもの、まず、お父さんに見せたい……ずっとそう思って生きてきました。」
ヘルガさんと母親は生き残ったけれど、父親は帰って来ませんでした。一度はとり上げられていた家を返してもらい、思い出のいっぱい残る家に住むようになって、彼女と母親はずっと父親の帰りを待ちました。解放後の大変な生活の中で、死亡を認めれば補償金がもらえると勧められました。「でも、認めたくなったのです。きっと、帰ってくると信じていたのですよ、でも……」と、彼女は言いました。
ヘルガさんの描いた100枚の絵のこと、テレジンで経験した“たった一日の天国”のこと、ソ連支配下のプラハで美術教師になって感じた、子どもたちの自由な発想と創作のこと、そのときに考えた、テレジンでのフリードル・ディッカーの絵の教室のこと。1990年の出会いからこれまでに、10回ほどヘルガさんと会い、お話を聞きました。まだまだたくさんの貴重な話があります。それはまたいつか、書きましょう。
2013年1月28日 野村 路子