新しい年になりました。今年の年賀状にも、私は、テレジンのことを書きました。「…寒さを語るときに、いつも真冬のテレジン収容所を思い出します…ここで暮らしていた子どもたちがいたのだという実感が、今日まで二十年以上も、私を、テレジンにつなぎ続けている…」と。
毎年、テレジンという言葉を書いてきたような気がします。テレジンの子どもたちの絵が、五十代になってからの私の生き方を決めてしまったのだと思っています。二十年以上の長い時間が流れ、思い入れは変わらなくても、私の行動力や実行力は確実に落ちています。悲しいけれど、いつまで続けることが出来るのかと心が暗くなる時もあります。「収容所の過酷な生活の中で、こんな美しい絵を描いた子どもたちがいたことを、誰かに語りたい、私が見たものを、誰かに伝えたい…そんな願いから、展覧会開催の夢が実現したのです」と書いたのは、1990年のことでした。
その思いは今も変わっていません。私は、その頃から、世界史を特別に学んだ専門家ではないと言っていました。あの第二次世界大戦当時の歴史を語りたいのでもないし、ヒトラーやナチスの行った暴虐を論じたいのでもない。ただ、偶然に見てしまった絵から聞こえてきた子どもたちの声に耳を傾けたい、そして、聞いたことを、まだテレジンを知らない日本の多くの人たちに伝えたいだけなのですと。
一生懸命に歩いてきたつもりです。何度も何度もヨーロッパやイスラエルを訪ね、数少ない生存者の話を聞いてきました。展覧会を開き、本を書き、話をしてきました。でも、大きな組織を持たず、資金もなく、力もない私のできることには制限があります。 地方へ呼んでいただいて講演をする度に、「はじめて知りました」「テレジンなんて聞いたこともなかったです」と言われます。「展覧会なんて、どこでやっていたのですか?」 その度に、自分の力のなさを悲しむと同時に、私が活動できなくなったら…という不安にかられます。<テレジンを語りつぐ会>という会はあっても、1991年に『テレジン収容所の幼い画家たち展』を開催した時のような、全国的な広がりではなく、会員といっても私の友人が中心の小さな組織で、しかも、当時のような協力企業もついていません。
これは、最初の展覧会開催時は、一年間の全国巡回展という企画であり、プラハのユダヤ博物館からの原画借用も一年契約で、企業にも、実行委員会会員にも、一年間の協力をお願いしていたため、当然、巡回展が終了した時点で、原画を返却、決算報告をし、会場で集まったカンパは、テレジン・メモリアル博物館と、プラハのユダヤ博物館、イスラエルのキブツ・ギヴァット・ハイムにあるBeit Theresienstadtに寄付をして、プロジェクトに終止符を打ったからなのです。ところが、その後、全国展終了と予想をはるかに上回る大きな反響が新聞やテレビで取り上げられ、「まだ見ていない」「ぜひ私の住む街でも」「どうしても見たい」というたくさんの声が寄せられ、幸い、原画は返却しても、レプリカの絵150点の日本における永久使用をユダヤ博物館から認めていただいて、組織なしに(私、野村の)個人の活動で継続してきたという経緯があるのです。しかも、そのレプリカのパネルは、埼玉平和資料館に寄託という形で維持・管理をしていただけることになり、今も、全国各地で展覧会が続いているのです。
全国巡回展当時から、わずかな生存者の存在を調べ、手紙を出し、会いに行き、お話を聞かせていただくこともできるようになり、その貴重な証言を、新聞や雑誌に書き、何冊もの本を出版する事ができました。1996年からは、子どもたちの詩に曲をつけた歌が作られ、その後、私のオリジナルの詩も歌になり、朗読と歌によるコンサート『テレジン もう蝶々はいない』が完成し、全国各地で上演し、2001年には、プラハ、テレジンでの上演もできました。2012年度から使用されている、学校図書KKの小学校6年の国語教科書にも『フリードルとテレジンの小さな画家たち』が掲載されています。長い間の使用で傷んだパネルを修復しようという<テレジンを語りつぐ会>の協力者の方々の力で、各地でカンパを集めていただき、2011年には、学校やグループなどで教材として見ていただける12枚セット、あの子どもたちの生きた時代と今をつなぐメッセージをこめた20枚セット、新しい貸し出し用パネルが完成しました。少ない人数ですが、今もテレジンの子どもたちに深く心を寄せ、あの子どもたちの遺した絵や詩をとおして、命の大切さや、生きていることの幸せを、日本の多くの子どもたちに伝えましょう、どんな境遇にいても、絵を描いたり、詩を書いたりすることが生きる力になるという事実をお話しましょう、勇気ある大人たちがいれば、絶望的になった子どもたちに、もう一度笑顔をとり戻させることができるのだと伝えましょう…と集まってくださっている仲間がいます。プラハに、イスラエルに、80歳を過ぎても、私が訪れることを待ちかね、「会いたい」「まだ話すことがある」と言ってくださる生存者がいます。
長々と書いてしまいましたが、まず、このテレジンの活動の概要をお話し、もう一度あらためて皆さんに伝えておきたい、テレジン収容所のこと、そこで光り輝くような日々を生き、アウシュヴィッツのガス室に消えた人々のこと、幸いにも生き残った子どもたちのことを少しずつ書き続けて行こうと思っています。ぜひ読んでください。そして、感想などお聞かせ頂ければ嬉しいです。
2013年1月10日 テレジンを語りつぐ会 野村 路子